tag:blogger.com,1999:blog-10631823193106930312024-03-08T14:12:20.656+09:00秘密の金魚SF、ファンタジー、怪奇・ホラー…手当たり次第に読んでテキトーに感想書く、そんなブログです。ネタバレ注意。アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.comBlogger34125tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-15961144557248391122012-07-22T19:42:00.000+09:002012-11-19T23:45:04.363+09:00ナジャ / アンドレ・ブルトン<b>「君は、私に耳を傾けるすべての人にとって、本質などではなく、ひとりの女であるはずだ。君は、いまもキマイラのような幻獣だと思わせてしまう何かが君のなかにどれだけあったとしても、ひとりの女以外のなにものでもない。君は、することなすことすべてみごとにやってのけるし、君の輝かしい理性は、私には没理性ととなりあうものには見えないのに、命をあやうくする雷のように閃いて落ちる。(中略)君は、悪というものをひとづてにしか知らない。君は、もちろん、理想的に美しい。君は、全てが黎明へとつれもどす存在、だからこそ、私はもう二度と君に会えないかもしれない………。」(p185)</b><br />
<b>「美は痙攣的なものだろう、それ以外にはないだろう(p191)」</b><br />
<br />
<br />
お久しぶりです。<br />
お久しぶりな上に、読んだのいつだよってぐらい前から読んでいる本について今更。シュルレアリスムの帝王、アンドレ・ブルトンの小説、「ナジャ」です。<br />
<br />
まず最初に屁理屈から。<br />
アンドレ・ブルトンという人は、小説というジャンルそのものを余り評価していません、というか嫌いな人です。<br />
<br />
<b>『彼らは自分ではあらまし見通しているつもりの実在の人物ひとりから、物語中の人物ふたりをでっちあげたり、実在の人物ふたりから、やはり遠慮なく物語中の人物ひとりをでっちあげたりする、それでこちらはわざわざ詮索の労をとらされてしまう!(中略)私はどこまでも実名を欲求する。どこまでも、扉のように開いたままの、鍵をさがさないですむ書物にしか興味を持たない』p19</b><br />
<br />
そしてこの哲学にのっとったまま、どうやって彼自身が小説というものをかくのか、その答えがこのナジャなのだと思いますが…まさにこの書物は、開いたままの書物、ガラスの家に住んでいるブルトンを見通すことが出来るという、世にもまれなる書物なのです。<br />
私はこの小説を何度も読み返していますが、これほど不思議な書物っていうのは世界にどれぐらいあるんだろうと思います。それぐらい、ちょっとジャンル分けやこれがどんな本なのかという説明が難しい、そんなものなのです。<br />
<br />
内容の説明を軽くします。この小説の主人公の私、つまりブルトンはパリの街をさまよっていたときに偶然「いまだかつて見たことがない目」をもった女と出会います。<br />
独特のポエジーと、予言ともいえるような不思議な力を持ったこの女、ナジャとブルトンの、神秘的ともいえる精神の交流、偶然の力の不可思議さを描いている…というのがあくまで軸でしょうか。<br />
ですが、上で言ったようにこれは普通の小説ではありません。それは「私」が作家本人であるという、私小説的な軽い意味ではない。極端に言えばこれは小説の体をなしてないのです。<br />
この上であげたあらすじに沿っている物語展開ではけっしてありません。小説といっても、ドキュメントみたいな所が沢山ありますし。<br />
<br />
そもそもこの小説のはじまり方は、「私は誰か?」なのです。<br />
他の誰でもない、ブルトンはまさに「私は誰か?」ということを求めるためにこれを書いている。<br />
そして上であげた筋にしても、ナジャに出会うという話になるまで、ブルトンは自分自身のことを書き続けるのです。自分が何に心を動かされるのか。「たこの抱擁」という妙なB級映画、デスノスとの催眠術の実験、薄汚い現代劇場、グラン・ギニョルの舞台の筋、のみの市で見つけた奇妙な物体、ランボーの魔力。<br />
上のあらすじを読んだだけだと、ナジャとブルトンの二人の恋愛劇、みたいなものを想像するかもしれませんが、あくまでそれは一部で、これはまさに美しいもの、奇妙なもののより集め、まさにシュルレアリスムの玉手箱といってもいい小説なのです。<br />
<br />
二人の神秘的な交流は、ナジャが精神病院に入れられるという結末で唐突にバッドエンドを迎えてしまう。そこにきて、ブルトンは今度は唐突に現代の精神医療というものを批判し始める。理屈っぽく、論理的に展開されているように見えるその文章はしかし、結局はナジャにはもっと救われる道があったはずだという、ひとりの人間を救いたかった男のひきつった叫びにすぎないように私には見えます。<br />
「あなたなのか、ナジャ?(・・・)これは、私自身なのか?」という悲痛な叫びが胸を打ちます。<br />
<br />
ここまできて、話は急展開を迎えます。<br />
ページは代わり、ブルトンはここまで書いてきた文章、自分が嫌がっていた小説という体裁でもって作り上げた文章に対する後悔、「私は誰か?」という問いに対する答えになったのか、むしろ印刷された文章が自分の人生というものを裏切っているのではないかという後悔、のようなものを語り始めます。<br />
そうして最後には、今まででてもこなかった、中身にも説明がない「君」という存在への声かけがはじまります。それはどこから見ても恋文で、その文章は涙がでるほど美しい。まるで、ナジャを失ったこと、自分を裏切らず小説を書くという行為といった様々な苦悩の底から、「君」という存在がブルトンを照らす光として浮かび上がってきたかのようです。<br />
その「君」への愛、その美しさへの賛美のあとに続くのは、美への定義、動的でも静的でもない美、「リヨン駅でたえず身をはずませている汽車のような」美、そして、あの有名な、シュルレアリスムの中でもっとも知られた、もっとも美しい「痙攣的な美」という言葉が現れ、物語は終わります。<br />
<br />
この小説をどう説明したらいいのか…。<br />
これはアンドレ・ブルトンという人の物語なのです。<br />
まるで他の人など眼中にないかのように、自分自身を描いた物語。<br />
「君」が誰かという説明もなければ、ナジャのその後の運命の話すらもない。<br />
極端にいえば「便所のラクガキ」といっても過言じゃないんじゃないかとすら思います。<br />
しかし、それが何故ここまで胸を打つのか、私には説明がつきません…。<br />
ひとりの人間が、思考し、さまよい、出会い、愛し、失っていき…それをここまで正直に書くことが出来る、怒りも、悲しみも、愛情もむき出しにすることが出来る、そのことに対する驚嘆と憧れかもしれません。<br />
心が傾いたという事実を忘れないこと、出会った人々の印象も留めること、通りの名、その彫像がだれのものなのか、何というホテルなのか、そんな他愛ないことすらも、一つの出会いとして記録していくこと。<br />
これは、誠実な小説です。おそらく世界で最も読者に誠実な小説なのです。<br />
<br />
この誠実さの結果、この小説を読むと奇妙な感覚にとらわれます。<br />
著者が同じ時代に生きているのではないかという感覚です。<br />
本というのは、時代がたったら全く別な意味をもったりするものですが…。<br />
これはどうなんだろう?<br />
勿論、シュルレアリスムというものが革命として存在する時代ではなくなったけれど、それでもこの小説の中に生きている「アンドレ・ブルトン」という人その人、肩書きやらなにやらを除いてこの小説の中のブルトンというものは、いつの時代にも普遍に感じられる人格なんじゃないだろうかって、思ったりします。<br />
そういう意味では、これはブルトンという人をまさにガラスの家に閉じ込めそのまま保存した小説であって、またそこにかかわってきたナジャという人もそうで…あんな悲しい結末になっても、ナジャという人間はいつまでたっても忘れられない、この物語の中で生き続ける人になったんじゃないか。<br />
そう思います。<br />
<br />
ブルトンのいう「痙攣的な美」をまさに体現したかのような美しい作品。<br />
完璧さからはほど遠く、時に冗長にも感じられる部分もありますが、<br />
「完璧さだけが美しいのではない」とまさに実感できる、大変魅力的な<br />
ものだと思います。<br />
シュルレアリスム文学に手を出したい人にはまず一番におすすめ。<br />
ただ、私の中でムリにジャンル付けするとしたらこれは「恋愛小説」です。<br />
シュルレアリスム文学という枠からは様々な部分にはみ出す作品だと思います。<br />
好みは別れれど、奇妙な読み口ということだけは保障します。<br />
読書しすぎて飽きてきた、読書EDの人への治療薬としてもオススメ。<br />
<br />
なお、岩波版には巌谷國士氏の大変細かい解説と註がついています。<br />
素晴らしいし、読んだあとに読むと色々と考えさせられるのですが、<br />
小説の印象を固めてしまい、折角の奇妙な読み口を薄めてしまうのも確か。<br />
なので最初はわからないところは読み飛ばしつつ、註は原注のみで読むのがおすすめです。<br />
<br />
しっかし、ブルトンという人間が男にも女にもモテたのはわかりますね。<br />
こんだけ己の信念にガンコな人ってなかなかいないよなあ。<br />
独裁的とか、様々な欠点もいわれるけど、自由と愛という、わかりやすいけれど難しいものを信じて、自分なりに実践しようとしてきた人として、本当にスゴい人だと思い直しますわ。<br />
人間としての欠点も多かった人だと思うけど、それがむき出しだから凄く愛着が湧くんだよね。<br />
シュルレアリスムの奥の深さはまさにこのブルトンという人の奥の深さだとつくづく思います。<br />
<br />
<br />アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-29981541957302553392010-11-28T23:19:00.000+09:002012-11-19T23:47:13.999+09:00宇宙飛行士ピルクス物語(上・下)/ スタニスワフ・レム<b>連中は存在しないのだろうか?だったらあのときかれに呼びかけたのはいったいだれだ?だれが助けを必死で求めていたのだ?専門家たちが、その絶叫の裏には、電荷の循環と、電極板の共鳴が引き起こす振動振動以外のなにものもないというのだとしたら、それでなにか事態が変わるだろうか?<br />……かれは、機械に罪はないと思った。人間は機械に思考能力を与え、まさにそのことによりかれらを自分たちの狂人じみた所業の共犯者に仕立ててしまったのだ。ゴーレムや、人間に刃向かって反乱や暴動を起した機械たちの伝説が、本来ならばそのいっさいの責任を負うべき者が、それを回避するためにでっち上げた嘘である事に思いを馳せた…<br />(p221-222)</b><br />
<br />
久しぶりです。<br />
今回は文庫化するのをずっと待っていた作品。(といっても文庫化したのもかなり前なんですが)私はハードカバーを図書館で読み、SFにハマるきっかけになりました。「ソラリス」と並んで、大好きな作品です。<br />
<br />
この作品はピルクスという宇宙飛行士が活躍する短編の連作になっています。<br />
彼が初めて宇宙をとぶことになる、ペーペーの学生時代からはじまり、「自動装置の敵」と陰口を叩かれるような百戦練磨の宇宙飛行士になるまで、非常に多種多様な面白い作品になっています。<br />
<br />
この話の特徴は、なんといっても主人公、ピルクスにあります。<br />
かれは顔は丸顔、ぽちゃぽちゃしてとてもかっこいいとはいえない、しかも学校の成績もよろしくはない。しかし、特殊な状況におかれた時の本能的な判断の早さ・正確さ、土壇場での度胸は段違いであり、まさに天性の宇宙飛行士といった趣があります。<br />
しかも彼はとても人間的で正直でもあって、ロボットのみせる人間的な部分に共感したり、逆に人間そっくりにつくられたオートマトンに対しては嫌悪感と反感を隠さなかったり。ただとても理性的で知的な人間でもあり、正義という感情に流されることはない。主人公は色んなタイプがいますが、ここまで魅力的でしかもあまり腹がたたない主人公って珍しいんじゃないんでしょうか。<br />
<br />
個人的にこの物語に惹かれた理由の一つは、多種多様な短編で構成されていながら、その底辺は一貫しており、その部分がとても共感できるからです。それはおそらくレムが他の作品でも描こうとしている、「人間とテクノロジーの関係」というものです。<br />
例えばアシモフであれば、ロボット3原則を底辺にして、非常にすぐれたロボットを描きだすわけですが、レムにとってロボットはどこまでも「機械」にすぎません。しかし、その機械を「人間的」と感じさせる要素はあって、でもそれはあくまで人間というフィルターを通して作られたことによって生じる人間性であり、間違っても自我や人間のコピーではありえない。<br />
<br />
たとえば「テルミヌス」という作品。おんぼろ宇宙船で貨物を運ぶ任務についたピルクスは、その内部でこれまた年季のはいった壊れかけのロボットに会います。実はこのロボットは昔事故にあったこの宇宙船の唯一の生き残りであり、その事故を記憶が残っており、ある「動作」をします(この作品はとても面白くて、恐怖心も感じる話なのでちょっとネタバレ隠し)。<br />
それは一見人間的にもみえるのですが、ピルクスはやはり「あいつはただの鉄の塊だ」と結論するのです。この行動はロボット本人の判断ではなく、そのロボットに偶然記憶された人間のなにかだ、と。<br />
他にも、人間が過去に起こった事故を意識するが故にカン違いをする「条件反射」、パトロール中に宇宙船が失踪する事件をピルクスが解明する「パトロール」、宇宙船が墜落する原因となった自動装置の謎を探る「運命の女神」など、多くの作品が、人間が自分たちのつくりだした機械というものを、その人間の精神のいうフィルターを通して見るが故におこる出来事を描いたものが多い。<br />
<br />
ちまちまこのブログでもいってますが、私はSFのSよりFの部分の方が好きです。じゃなんであえてSFというジャンルを読むのかというと、SFのもつ手法というかギミックが、「人間」というものを中心にした物語を非常に面白く表現してくれるからです。そういう意味ではこのピルクス物語は私のなかでSFのパーフェクトに近いのです。<br />
擬人化されたロボットや、友好的な宇宙人といった話も嫌いではないのですが、読みながらそれを腹のそこから信じていたり、リアリティを感じたりはしない。でもレムという作家の書く宇宙や機械といったものの表現は、なにか私にそれを感じさせるのです。<br />
それは「未来にこうなって欲しい」とか、「こうなるだろう」ではなく、「今まさにこうであるし、未来も永劫変わらない」という感覚で、それを科学的知識に裏打ちされた非常に濃密な描写で描かれると、なんというか、フィクションなのに妙な現実感があるんです。<br />
<br />
濃密な描写とかきましたが、この人の作品は風景描写なんかもすごいです。火星や月の描写なんか、その惑星に対するピルクスの思いもふくめて、まるで見てきたようで、何者なんだろうと思ってしまいます。<br />
それが現実であるかどうか、っていうのはどうでもいいんですよ。「見てきたようなウソをつき」というのが、とっても上手い。<br />
例えば娯楽SFなんか読んでいると、目はどんどん進むんだけど読み終わったあとにある一場面がしっかり残ってるってことがなかったりするんですが、この作品は読みながら少々冗長に感じても、読み終わった後にピルクスの心情や風景がふっと頭に浮かぶことがあるんです。映画でもそうですが、退屈だったと思っても見終わったらある絵が頭の中にのこっている、そういう作品ってありますよね。私にとってレムはそうなのです。(や、この作品は娯楽としても面白いのですが)<br />
<br />
上ではあんなことかきましたが、ロボットが擬人化に近い形になっているという話もあるにはあります。ただ、それが本当にロボットが人間に近づいているのかっていうのはちょっとわからない。ピルクスの個人的な思い入れがそうみせているようにも思う。<br />
「ソラリス」もそうなんですけど、謎が最後まで「これだ」という答えなしで終わるってパターン、レムは好きですよねえ。<br />
<br />
「ソラリス」などの長編作品に比べて、娯楽性もとてもたかく、例えば人間と人間そっくりのロボットとが交じり合ったメンバーで航宙する「審判」などは、ミステリとしても傑作だと思います。<br />
個人的には「読むべきSF」のリストに絶対加えてもいい、それぐらいの名作だと思っているのですが、ソラリスに比べると知名度が低いのがとても残念です。文庫化にここまで時間がかかったというのも信じられない。是非一読を。ちなみに上下巻です。これにハマったら「太平ヨンの航星日記」もおすすめします。<br />
<br />
<br />
<br />アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-51110853074232626322010-08-25T23:43:00.000+09:002012-11-19T23:47:14.013+09:00ロマンティック時間SF傑作選 時の娘 / 中村融編<b>打ち寄せる忘却のなかでも、つねにあまねく存在する彼女が―過ぎ行く歳月のすみずみに、その歳月が打ち寄せる土地の津々浦々に、時間と空間と生命そのもののいたるところに、いつでもかならず存在する愛らしい娘が―はっきりと感じられた。あたかも実際に抱きしめているようで、忘却の闇すら愛しく思える――(p287『出会いのとき巡りきて』)</b><br />
<br />
あとがきによると、日本ではアメリカよりも「ロマンティック時間SF」というものが人気が高いらしいです。信じられない話ですが、ハインラインの『夏への扉』やロバート・ヤングの『たんぽぽ娘』は、むこうではオールタイムベストでは見向きもされないのだとか。<br />
かくいう私も、恥ずかしながらこういう類の話は大好きなのです。英米で見向きもされないというのもわかるんですけどね。こういったものの多くは、それほどSF的な科学技術や理論について論じるものは少なく、「タイムスリップ」という要素自体がある意味陳腐化している今では、正直ファンタジーの部類にいれてもいいような作品も少なくはないですから。<br />
<br />
しかし、やっぱり私がSFというジャンルの素晴らしさを感じるのは、まさにこの短編集に収められているような作品を読んだ時なんですよね。<br />
タイムスリップやタイムパラドックスというSF的要素を用いながらも、決して人間ドラマの方を捨ててない、むしろそのフィクションの部分をひきたたせるためのSF要素で、しかもその要素のおかげで、「時を越えた愛」という一見すると陳腐にみえるものが、心躍るものに生まれ変わるんですよ。<br />
正直SF以外のジャンルで恋愛ものというのは個人的にはつらいのですが、SFの恋愛ものはとっても好きです。<br />
時を越えるとか、時を戻るというのはそれ自体、「夢物語」であって、そこがある種メランコリックで哀愁がつきまとうと思うんですよね。それがSF的手法で成し遂げられ、ハッピーエンドになったとしても、なにかカラっとした気持ちにはなれない、そういうよさがあると思います。<br />
<br />
で、この作品集ですが、現在は他では読めないものばかりということでかなり豪勢、しかも選出もよくて、正面から時間を越えた愛を扱ったベタなものから、タイムパラドックスを手のひらで転がすものまで、様々なものがそろっています。<br />
しかし基本はロマンティックSFであり、技巧にこったものであっても決して難解ということはなく、そこにはしっかりしたフィクションの面白さがあって、個人的にはとてもいい選集だと思いました。<br />
<br />
『チャリティーのことづて』は非常にベタな時間をまたいでの少年と少女の恋物語。導入にぴったりなライトな味わいです。<br />
『むかしをいまに』は技巧的にかなり凝っていて、どちらかというとそっちにばかり目がいってしまうかなあ。あと浅倉さんの訳がどうにも読みづらい感じがしました。<br />
『かえりみれば』はやはりSFというよりファンタジーに近いライトな作品で、ロマンティックSFというより、コメディに近いかも。個人的にはこの作品集の中では浮いている気がしました。<br />
<br />
『時のいたみ』は時間旅行が当たり前になった世の中で、タイムパラドックスを最小限にするために、「未来の肉体」に「現在の精神」が宿った男の話。「未来の主人公」が何かの理由で過去に戻りたいと願ったはずなのだが、「現在の主人公」にはそれが何故かが最初はわからない、というのが面白いです。<br />
何故主人公が過去に戻らなければならなかったのか、そして何故彼の肉体は大きく変化していたのか、「未来」が「今」に変わる、全てが明らかになる瞬間は感動的で、ラストはなんとも苦々しいけれど中年の恋愛の哀愁があっていい。個人的にこれは相当お気に入りでした。<br />
<br />
『時が新しかったころ』は読んでいるだけでわくわくする冒険物(なんといっても時代が白亜紀!)で、主人公のベタなぐらいのかっこよさやアクションも楽しいのですが、エンディングにはちょっとビックリ。結構エンタメしてる軽い作品なのですがちゃんと最後に恋愛物になっていて感心しました。読んでいて楽しかった。<br />
表題作は読み終わってもちょっと私には1から10まで理解した自信がないタイムパラドックスもの。主人公や他の人物の行動まで全て時間や運命という規則に縛られているような、一種の不気味さも感じると同時に、まるでミステリの謎解きを読んでいるような気持ちよさもある。<br />
<br />
『出会いの時巡りきて』は、余りにも多くの刺激的な冒険をやりすぎて人生に飽いているワイルドガイが、ある科学者と知り合い、その科学者の作った特殊な装置で時間を一瞬であちこち旅する話。<br />
物凄く壮大で、気の遠くなる時間をいったりきたりしながら、生まれて初めて恋した「永遠の女」を捜し求めるというストーリーはこの選集に一番ふさわしい話かも。一種の神々しさを覚えるエンディングがとても印象深い。翻訳も何だかとても古めかしく美しくて、ちょっと音読してみたんですけど気持ちよかったです。あと、この主人公がいいんですよね~金髪・巨躯でゴツくて傷だらけの顔。どうもこういうベタなワイルドガイに弱いです(笑)。<br />
<br />
『インキーに詫びる』は、すっかり音楽的才能をなくした音楽家が、過去を幻覚のようにみるようになり、その過去の謎をとくために別れた恋人に会いにいく、という話。現実を変えたりするわけではなく、過去の「記憶」を確かめるために現在に残された手がかりをさぐりながら、最後には過去が現在に現れることによって真実が明かされる、という、「事実」と「記憶」の構造が技巧的で面白い。<br />
前書きから難解そうだとかまえていたんですが、ゆっくり読んでいれば前後関係もつかめるし、決して技法に溺れることなく、少年時代のノスタルジックで繊細な思いや、魅力的なヒロイン、そして非常に希望に満ちたエンディングなど、感動的でラストにまさにふさわしい話でした。<br />
<br />
どれもいいんだけど、私的にいいなあと思ったのはジャック・フィニィの『台詞指導』でした。主人公は映画の台詞指導係。今撮っている映画に出演しているとびきり美人の女優に恋しているが、今その女優にあるのは映画を通して出世したいという野心ばかり。1920年代を舞台にした映画を撮るために借りた古いバスがちゃんと動くかどうか、少々の遊び心もあって、映画のスタッフが皆で乗り込み、深夜に町に繰り出すのだが、何か様子がおかしくて…。<br />
タイムスリップの理論がしっかり語られているわけではなく、ファンタジーよりな設定ですが、全編通して古い時代へのノスタルジーと、メランコリックな雰囲気に満ちていて、凄く好きです。ラストの切なさは個人的にこの選集随一で、恋というものと時間というものを同時に悟るヒロインの心理描写がいいです。<br />
「人はしばしば一目で恋に落ちるが、稀なのはそれに気づく人なのだ」という文章など、読みながらはっとさせられることも多くて、なんというか、これはもうある種ジャンルを越えた恋愛小説だなあと感動しましたよ。フィニィは読んだことなかったけど、コレを読んでやっぱ人気ある作家さんだけあるなあと思いました。どうも文学的な才能がこの中でもズバぬけてる気がしてなりません。<br />
<br />
不満といえば、「これはロマンティック時間SF集だ」と銘打っているため、読みはじめると中盤辺りから少し展開がよめることでしょうか。これらの作品がもっと違うアンソロジーに入っていたらもっと楽しめた気がしてなりません。<br />
<br />
しかし、毛色の違ったSFアンソロジーとしても、また毛色の違った恋愛小説としても、なかなかに面白い選集だと思います。<br />
私個人は恋愛ものの小説を読んでいるというのも恥ずかしいぐらい、女っけも男っけもねえ奴なんですがそれでもロマンティックな気持ちになれましたよ。<br />
恋人の贈り物なんかにたまに毛色の変わった本として、どうでしょう。アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-4577046134601612762010-07-05T18:50:00.000+09:002012-11-19T23:47:14.009+09:00見えない都市 / イタロ・カルヴィーノ<b>「朕が昨夜、夢で何を見たか語って聞かせよう」と汗はマルコに言う。<br />「隕石と漂岩の点々と散らばっている、平坦な黄土地帯のただなかで、朕が遠くに見たものは、ほっそりと伸びた針のような都市の尖塔が聳え立つ姿であり、それは月が運行の途中で、時にはこの塔、また時には向こうの塔の上にと、その上で休むことが出来、あるいは起重機の綱の上にとまってゆらゆらとぶらさがっていられるようにというわけなのだった」<br /><br />するとポーロは――<br />「陛下が夢の中で御覧なさった都市はララージュでございます。夜空に留まっているようにというこの祈願をその住民が行いますのは、月がその都市にある全てのものに限りない生育と増加を授けてくれるようにというためなのでございます」<br /><br />「そのほうの心得ておらぬことがあるぞ」と汗が言い添えた。<br />「月がララージュの都市に感謝の印として与えたものは、いっそう稀有な特権なのだ。すなわち、軽やかに成長するという特権である」(p93~94)</b><br />
<br />
イタロ・カルヴィーノ、大好きな作家です。イタリアの作家というとこの人かディーノ・ブッツァーティは絶対知っておくべきです。それぐらい、魅力的で個性的な作家だと思います。<br />
<br />
この小説は、マルコ・ポーロがフビライ汗に、自分が見聞きしてきた都市の話を物語るという形式で話が進みます。しかし、一本のつながった物語ではなく、非常に短い章仕立ての、都市の話だけで成り立っているような物語です。<br />
間間に、ポーロとフビライの会話が挿入され、それがこうした都市の物語をどのように考えるのかのヒント、奥行きを与えてくれますが、それにしたところで一見意味がないもののようでもあり、また、この二人が出るからしっかり時代が固定されているわけでもなく、空港やジェットコースターなどの話もでてきたりして、どこまでももやもやとしたつかみどころのない本です。<br />
<br />
この都市の物語は様々で、同じまっしろな微笑んだ顔の人が毎年延々と増えていく都市や、天空に黄金の都市があると信じ、それを完全に模倣しようとする都市、都市からでる廃棄物を、都市から遠ざけようとするあまりにその汚れに取り囲まれてしまう都市など、奇妙なものばかりです。<br />
マルコはこれを実際にみたもののように語るわけですが、そこにはなにかほら吹き男爵の冒険などにも通じる、とんでもないほらというふうに感じられないわけでもない。実際に物語の中でも、汗はマルコにそなたの語る町など存在しない、とごねたりする。<br />
それでも、マルコはどこまでも淡々と都市の話を物語ります。こうした実際には存在しないようにみえる幻想的な都市の話には現代の都市を皮肉る寓話的方向性がないでもない。でも、この物語をそういう見方で見てしまうのはちょっともったいないものでもあります。<br />
<br />
確かに、これらの都市は一見すると病んでおり、その問題点は我々が生きる時代と符合している部分もあるけれど、ただ都市というものの病んでいる姿ばかりを映し出しているわけではなく、様々な世界の多様さ、都市というものの面白さもまた、現れているからです。<br />
マルコの語る都市の話に共通しているのは、都市があたかも独自の思考でその姿になっているように思えることです。私達は人間こそが都市を作り出すと思っているが、この本に出てくる都市はその存在によってすんでいる人間を作り出しているようでもある。<br />
読んでいるうちに、人が住むためのもので、暮らしやすさを優先して徐々に作り上げていくものだ、と思っていたのが、都市をつくりあげるのは確かに人だけれども、そこには利便性を越えた人間一人一人が気づかないような「哲学」が入り込んでおり、その個性の強烈さゆえに、そうして作り上げられた都市がまた人間をつくっていくのではないだろうか、というふうに変わっていきました。<br />
幻想小説であり、限りなく非現実的な小説でありながら、なにか都市というもの、さらに広げれば人工物というものの、本当の姿を覗くことが出来たような、そんな気がしました。<br />
<br />
これは本当の意味で「旅」ができる本だと思います。<br />
ガイドブックで写真を見るだけではできない旅。それどころか、実際に自分の足で歩いてもできない種類の旅かもしれません。本にしかできない旅。<br />
それとも、本文でマルコ・ポーロが「私はどこの都市について語るときでもベネツィアについて語っているのでございます」」といったように、読んで旅をしているつもりなのに本当は自分の精神は自分の故郷から一歩も踏み出していないのかもしれません…。アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-88340519621981364992010-05-29T18:00:00.000+09:002012-11-19T23:47:14.031+09:00黒い玉・青い蛇 トーマス・オーウェンSFをまとめて買ってしまい、読む時間がないという幸せ。やーやっぱ面白いよね、SFは…。<br />
<br />
久々にレビュー見返してみたんですがネタバレ全開ですね(笑)。<br />
そういう趣旨なのですが、もう少し押さえて書いてみようと思います<br />
<br />
今回はでもSFじゃありません。ホラー。<br />
<br />
文庫で2巻でてまして、表紙がルドンの不気味な白黒絵なのもポイント高いです。<br />
短編集で、黒い玉の方はどちらかというと生理的な嫌悪感を覚えるもの、青い蛇の方はパンチ力はないものの、じわじわきいてくるボディブローのような不気味さがあります。どちらも短編モノでは一級の出来じゃないでしょうか。私は昔これを図書館で借りてからとりこになり、文庫になったのを知って即座に買いました。そんぐらい好き。<br />
<br />
ホラーといってもキングのようにストーリーとして1級のキャラクター造形があるとか、クライブ・バーカーのようにグロ描写が非常にアーティスティックだとかそういう物凄い個性があるタイプではなく、どちらかというとブラック・ユーモアの短編に近い読後感です。<br />
ただ、これがなんだか背中を撫でられるような不気味さがある。『何だかわからないから怖い』というタイプの内容で、幻想的で何処となくヨーロッパらしい重圧感と品があり、アメリカのホラーではまず味わえない空気感があります。<br />
<br />
解説にもかいてありますが、この人の作品で興味深いのは、トランスフォームがよく出てくることです。<br />
ホラーにおける変身はメジャーですが、この作品集における変身は、狼男の変身のように劇的なものではなく、どちらかというとカフカの「変身」に近い、比喩的なものとしてのトランスフォームです。<br />
<br />
でも微妙に違う。あのように回りも認めている変身ではなく、その感覚は「見間違い」に非常に近いのです。<br />
<br />
例えば、暗闇を歩いている時ふっと目に入った電柱の影に、誰か(もしくは何か)が見えた気がして、<br />
慌ててもう一度見返す。でも、もういない。見間違いだったのか、という感覚。<br />
それが果たして本当に見間違いだったのか?本当は何かいたんだけど、見返した途端いなくなっただけじゃないだろうか?それを確かめるすべはありません。この作品集の変身はそれに非常に近い。<br />
<br />
例えば、ある話では、不貞を働いた娘の話をきいた父が、怒りに駆られたまま彼女に会いに電車にのります。<br />
<br />
頭の中では、「雌犬め」と彼女を罵り、苦々しい思いでいると、個室に本当に雌犬が現れる。どこからどこまでも不愉快なその雌犬と、彼は格闘をし、窓からほおりなげてしまう。しかし、電車を降りてみると死んでいたのは彼の娘。「たいへんなあばずれだった」などと話す周囲に対して、彼は「私の娘だ…」と叫ぶけれど、周りは冷徹な顔をして、彼と娘につぶてを投げつける…。<br />
<br />
どこで犬が娘にトランスフォームしたのか、わからないままです。そもそも本当に彼が殺したのは自分の娘だったのかともいえる。本当は娘にみえて犬かもしれない。犬に見えたのに娘だったのと同じぐらい確実な話です。どこまでもあいまいな、「何か」と「何か」の境界。<br />
<br />
本来なら見間違えようのないものが、何かをきっかけにあっさりと敷居を飛び越え、まるで現実は幻のように「あれはなんだったのか」と一生わからない問いを主人公に残していく。これがこの作品集の怖さだと思います。<br />
<br />
しかもその元の形には決して戻せないんだよね。幻のように見えて全て現実で、元の形には戻らないの。<br />
それが怖いんだよなあ。夢の中で誰かが死んじゃったり、自分がどうしようもない状況に追い詰められたりするとこんな感覚に陥る気がする。<br />
<br />
なんかヘンなたとえですが、「青い蛇」の作品群をみてると、昔大好きでよく見てた「Xファイル」思い出すんですよね。あれもなんか、結局出来事が未知のものによるものだったのかそうじゃなかったのか、わけのわかんない煙にまくようなオチで終わってた記憶があります。<br />
<br />
あんななげっぱなしジャーマンではありませんが、この作品集は何か理解できないものを、理解するという謎解きオチなどすることなく終わらせ、それによって独特の読後感が生み出されていると思います。<br />
<br />
ただこういうぼやぼやしたものばかりではなくて、割と直接的なものやユーモラスなものなど幅も広く、 「次の短編が読みたい!」と思わせる質の高い作品がそろっていて、ホラー小説を普段読まない人にもおすすめできると思います。<br />
<br />
余談ですけど、私中学ぐらいのときにこれの「青い蛇」にはいってる「雌豚」読んで、無茶苦茶興奮したという恥ずかしい過去があります…。何か、すごい生々しくてエロティックなイメージがずーっとついてしまって、 書店でこの文庫見かけた時も一番によぎったのはこの短編のことでした…。<br />
ガキのころのスケベ心、おそろしや。アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com1tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-66784069116689697052010-04-03T23:29:00.000+09:002012-11-19T23:53:15.845+09:00平家物語(百二十句本)2だいぶ間が空いてしまいましたが、続きです。<br />
<br />
平家物語には宗教性の強い描写が多く、そこが非常に魅力的なんですが、もちろん軍記ものなので、戦闘描写も 多彩であります。<br />
最初は平家の公達がナヨナヨしてるようで、源氏方の方がかっこいいかなーなどと思っていたのですが、何周かするうちすっかり平家方のとりこになってしまいました。<br />
<br />
個人的な最近のマイブームは、平重衡、平忠度、越中前司盛俊あたりでしょうか。<br />
重衡は、武士貴族を絵に描いたような人で、戦も達者でありながら、音楽もたしなみ、和歌もうまく、人格的にも非常に闊達としたさわやかな人だったようです。<br />
この人は悲劇の人で、坊主どもを攻めた時奈良の伽藍を焼いてしまい、その罪のため生きたまま捕らえられて、坊主に引き回された挙句処刑されてしまいます。当時としては伽藍を焼くなど最大級の罪でしたから、酷い目にあって殺されたのじゃないだろうかと思うと気の毒で仕方ありません。<br />
彼が死ぬ前に預けられた屋敷で千手という女性の唄に琵琶を合わせるシーンは能にもなっている名シーンですが、ここの重衡はまた、死ぬ間際だというのにクールなユーモアを感じさせて実にいいのです。<br />
<br />
忠度は有名なので説明も不要な人ですが、大変に和歌にすぐれ、京を離れる時に和歌を託して選集に載せてもらうよう頼む、死ぬ間際も、しころ(カブトのびらびらしたとこ)に辞世の句を手挟むなど、とにかく歌に対する執着が凄い。それでいて戦っても強いというのが本当にかっこいいです。<br />
<br />
越中前司は所謂マッチョキャラです(笑)。「7,80人がやっとひきたる船を頭の上にもちあげ、またおろす」ことができるほどのマッチョだったらしい…スゲエ…。<br />
この人は最後が気の毒で、源氏の武者をその怪力でもっておさえつけ首をかこうとするのですが、そいつが「まって!降参するから!」というと、意外とさっぱりした人だったらしく(笑)、それなら、と気を許すのですが、その後源氏の武者の部下が現れ、二人で協力して彼を討ってしまいます。いつの時代にも、得するのは卑怯な奴というかなんというか…。<br />
<br />
それと、やっぱりカッコイイ武将といえば個人的にはずせないのは、義仲の部下、今井兼平です。もうすげえ好きなんですよこの人。名前聞くだけで異様に反応するほど。<br />
義仲とはめのと子の仲で、兄弟のような関係、それでいて武士としての忠節も厚い人。義仲とは最後2騎になるまでつれそい、「いつもはなんとも思わぬ鎧が、今日は重うなったるぞや」と弱音をはく義仲を、「御身も未だ疲れさせ給ひ候はず。御馬も弱り候はず。(中略)臆病でこそ、さは思し召し候ふらめ。兼平一騎をば、余の千騎と思し召し候ふべし。」と、義仲を励まし、いよいよ危なくなると、「お前と共に戦って死にたい」と訴える義仲に、何処のものとも知らない兵に切られて死ぬのは後世の汚点となる、といって自害するように訴える…。
<br />
義仲がまた、ちょっとうっかりさんというか、あまりに純真すぎるところがあるので(笑)それを支える兼平が非常に献身的でかっこよく見えるのです。結局義仲は、自害しようとして馬で松原に向かう途中、凍った田んぼを踏み抜いてハマってしまい、身動きが取れなくなり、「今井の行方のおぼつかなさに」振り返ったところを矢でいられます。兼平の願いは届かなかったわけです。切ない…。<br />
兼平は最後は「武士の自害する手本よ」といい、口に刀をくわえて馬から飛び降りて死にます。(グロ)<br />
<br />
こうしたエピソードの連続で作られているのが平家物語です。映画化やドラマ化が難しいのは予算もありますが、このエピソードの積み重ねで作られる作品の難しさではないでしょうか。<br />
平家物語のモチーフは近代文学者もよくかいていますが、そうした作品はどうも…平家物語の持つ魅力をいちじるしくかいているように思われるのです。<br />
その理由の一つは、やはり感情描写が殆どない平家物語のドキュメンタリーチックな手法が、近代文学の饒舌な形に変えられると、急に陳腐に見えること。不思議な話ですが、平家物語なんてのは昔の文学なので当然、テンプレートにそってかかれてる訳です。歌の引用による風景描写や、合戦の様子にいたるまで(さしつめひきつめ散々に射る、とかしころをかたぶけ、とか)、同じような文章が使われているのに、それが決して人を飽きさせることがない。<br />
それはやっぱり、そのテンプレートを使うにしてもまったく手を抜かない、一挙一動にいたるまで行動を抜き出すような、偏執的なまでの個人個人の描写に真剣だから。<br />
「今こう思っている」ということをセリフで抜かなくても、それらの態度から思いを想像させるのです。<br />
<br />
近代文学はどうしても私小説の悲しさで、「気持ち」を書いてしまう。これが平家物語には著しく相性が悪いのだと思います。平家物語に限らず、所謂武士階級のための芸術というのは、「想像」というものを非常に重視している。<br />
例えば能です。歌舞伎はやはり、ある程度の舞台装置や、俳優の容姿などが重視されるわけですが、能にはそれがないわけです。紙で囲んでしまえばそれは船であり、この世に無い人は皆面で表現されてしまう。それはやはり、昔の人はそうしたものを説明する必要が無かったからだと思うんですよね。武士にとって、平家物語に出てくる悲劇の人々の顔、気持ちといったものは、容易に想像できるものだったんじゃないでしょうか。だからいらないものをどんどんどんどん省いていって、それが彼らにとって究極に感情移入できる、もう一つの人生として舞台に再現されたのではないかと思うのです。<br />
<br />
それと、近代文学と平家物語の相性があわないもう一つは吉川英治の新平家のようなものは例外として、多くの近代文学がかいた平家物語はその一部なわけですけど(芥川や菊池寛の俊寛とか。菊池寛のはある意味面白かったけど)、一部を抜き出した途端平家物語の魅力は失われるんですよね。<br />
上であげた、木曽最後の場面なども、平家滅亡までにいたる歴史の中で描かれるからこそ印象に残るのであって、単体として抜き出すと、何だか陳腐に感じると思います。<br />
これこれこういう人々のなかに、義仲という人がおり、兼平という人がいた、それが平家物語の魅力でありパワーなんではないでしょうか。<br />
人の細かなエピソードで成り立った群雄絵巻なんだと思います。それはのちの軍記ものに比べたら、女々しくみえるところや、宗教の匂いが強い部分が、人によってはあわないのかもしれない。でもそれはまさしく平家物語しかもたない個性だと思います。<br />
<br />
私はこの物語を一読で大ファンになりましたが、2度よむと、また全然違う魅力があってますますひきつけられました。古典にこんなことをいうのもヘンですが、私のオールタイムベストです。<br />
<br />
最後に、あえて「百二十句」とかいたことについて。<br />
<br />
平家物語は多くのバリエーションをもち、それが平家物語を「研究するのも読むのも面白い」といわせる理由です。この百二十句がのっているのは新潮の古典集成。今は文庫で気軽に平家物語は読めますが、個人的にはこの新潮古典集成のものがおすすめです。その理由は<br />
<br />
・横に字幕のように現代語訳がついており、原文を読みながらわからなかったら字幕を見る、という読み方ができること。<br />
<br />
・注が非常に充実しており、他本との差や史実ではどうだったかなど、よりいっそう興味が深まる<br />
<br />
・名前の注が細かく、前にでた名前でもでるたびに説明がついたりするので私のような忘れっぽい人でも安心<br />
<br />
・今一番手に入りやすい、岩波文庫文庫本になっている覚一本と違いがあるが、特にラスト。「断絶平家」と言われる形で、覚一本のしんみり終わる形よりも、いきなりパタリと終わってしまう無常観のある終わり方。両方よんだがこっちのほうが個人的には好きでした。<br />
<br />
などの理由。買うのはちとキツいので、こっちを図書館とかでかりて読んでから、岩波の文庫を買って読み返すのが理解が深まるし手軽でいいかなあと。<br />
<br />
どちらにしても、名作には違いないです。敷居は高いように思いますが、ハマると危険です。<br />
<br />アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-30524517296333656762010-02-08T23:38:00.000+09:002012-11-19T23:58:05.586+09:00平家物語 (百二十句本)どうもご無沙汰です。<br />
<br />
今回は何故今更、と言われそうな古典のレビューです。<br />
<br />
実は私、殆ど学校というものにいってないのもありますが、古文が苦手で、名作といわれるコレも避けて通っていたのです。<br />
しかしよんでみると、あまりの面白さに感動。正直、最近ちょっと小説に飽きたかもしれん、などと思っていた矢先だったので、たちまち読書EDから抜け出すことができました。素晴らしい。<br />
<br />
今更いうのもなんですが、平家物語というのは清盛の平家絶頂期から、源氏との戦いに敗れて壇ノ浦に多くが沈み、平家終焉までを描く歴史絵巻です。<br />
しかしながら時代が違うので、今イメージする「歴史小説」では当然ないわけで。意外な話ですが、この長い話の中で合戦シーンは終盤に固まっているばかりで非常に少ないのです。<br />
じゃああとはどんな話かというと、例えば清盛に翻弄される白拍子の話であるとか、流された謀反人の話だとか、これから首を切られる惟盛の少々くだくだしいぐらいの思いであるとか、<br />
<br />
もしこれが今の作家が書く物語だったら、鵯越や宇治川など名だたる合戦、大きな歴史イベントにページをさくはずです。しかし平家物語はあろうことか清盛の息子、重盛が親父にする長ったらしい説教に何ページもページ割くんですよ。ありえない。てか小松殿嫌いです。喋りすぎじゃ。<br />
だから、なんでこんな所こんなに長いの?っていう部分が、今の人から見ると沢山あるわけですよ。<br />
<br />
でもこれこそが、このエンターテイメントとして完成されていない所にこそ、物語の本質があるんじゃないのかなあと思うのです。<br />
それはつまり、書く人、語る人の感情移入の問題で、ここは美しいと思うからここばかりを語る、逆にここは魅力を感じないからはしょる、というような。<br />
考えてみれば歴史小説であっても、歴史ではありえないわけで、じゃあ歴史が何なのかといえば、結局書き起こされた歴史というのは物語でしかないはずで、物語というものは多分にその時代を生きる人の感情ではないかと思うんです。<br />
<br />
興味深いのは、平家物語は物語としてかなり改ざんされた歴史なんですよね。実は一の谷にまけたぐらいでは、平家はまだ強い力を持っていたんですが、平家物語ではあたかももはや平家は終わりであるように、物悲しく描かれている。それは物語が「盛者必衰」でなくてはならないからです。<br />
平家は消え入る運命にあるということが、物語として設定されているから。そしてその物語は実際に平家の時代が終わったという歴史にそって織られているわけです。<br />
<br />
こういうふうに物語としてアレンジされていてもなお、今の私達にとって退屈だとか理解できないと思わせるのは、その当時の人の考えが私達と違うからなわけで。<br />
つまり平家物語を読むことは、単純に物語を味わうということのみならず、当時の人のものの考え方をダイレクトに受け取っていることになるのですね。<br />
<br />
仏教や神教の色合いがどのような人々の背後にも見えるのをみるにつけ、これが私と同じ日本人なのだ、と理解するのもなんだか困難なほど、そこには隔たりがあると思います。「古きよき日本」なんていう言葉じゃ片付けられないほど荘厳で、呪いや祈りに満ちた日本の姿がそこにあるのです。そしてそれこそ、物語を読む楽しみなのではないかと思いました。<br />
<br />
こういう、物語としてあまりに偏った描写をする平家物語の魅力に気づいたのは、俊覚の部分でした。<br />
鹿ケ谷の陰謀で謀反をたくらんだ俊寛・成経・康頼が鬼界ヶ島(今の硫黄島)に流され、暫くたったのちに許しが出るのですが、赦文を持った使者が島にたどり着いた時、成経・康頼はでかけており、俊寛が文をうけとります。興奮して文をあける俊寛ですが、そこにはなぜか俊寛の名前がありません。<br />
<br />
<b>…俊寛という文字はなし。礼紙にぞあるらんとて、礼紙を見るにも見えず。<br />奥よりはしへ読み、端より奥へ読みけれども、二人とばかり書かれて、3人とは書かれず。</b><br />
ここで二人帰ってきて、同じように文をみるのですが、やはり3人とはかかれていません。信じられない俊寛の嘆きは強烈です。<br />
<b><br /></b><br />
<b>「そもそも我ら三人は、罪も同じ罪、配所も一つところなり。いかなれば赦免の時、二人は召しかへされて、一人ここに残るべき。平家の思ひ忘れかや、執筆のあやまりか。こはいかにしつる事どもぞや」<br />と天にあふぎ地にふして泣きかなしめどもかひぞなき。少将(成経)の袂にすがって、<br />「俊寛がかくなるといふも、御辺の父、故大納言殿よしなき謀反ゆえなり。さればよその事とおぼすべからず。ゆるされなければ、都までこそかなはず共、この船に乗せて、九国の地へつけてたべ(後略)」</b><br />
<br />
必死に嘆く俊寛に、成経たちは、都に戻ったら清盛に相談もしてみるから、と適当にあしらって、船にのります。<br />
狂ったようになった俊寛は、ほどいたとも綱にすりより、水が腰まで来ても、脇まで来ても、すがりついて泣き叫びます。「さていかにおのおの、俊寛をば遂に捨はせ給ふか」と…。<br />
<br />
平家物語屈指の、恐怖と悲しみを誘う名シーンです。この感情に訴える描写はすさまじい。紙を繰り返し繰り返し眺めるところや、人のそでにしがみついて泣く姿が、嫌でも目の奥に浮かんでくるようです。<br />
<br />
でもこの俊寛は実際には、許されなかったわけではなく、もう島でなくなっていたらしいのです。つまり、平家物語の完全な創作なわけですが、そういわれても、もうこのシーンをみてしまえば、俊寛という人物を「存在しなかった」と片付けることは出来ないでしょう。物語の人物が、紙の上にかかれた文字をこえていきいきと存在し始める、その物語の強烈な魅力が平家物語にはあるのです。<br />
<br />
そしてそれはこの物語をつらぬくこの時代の人々の、呪術的で宗教的な感性となにかしら関係があるような気がします。
<br />
何か長くなりましたが、語り足りないので次に続くと思います(笑)<br />
<br />アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-80676135348452811512009-11-14T13:19:00.000+09:002012-11-20T00:01:31.740+09:00読んで!半七&半七捕物帳 巻の四 / 岡本綺堂岡本綺堂の怪談が読みたい、と思っていたのですが、どの選集も入っているのは<br />
半七ばかり…正直捕物帳に興味はないし…と思いスルーしていたのですが、時代劇にはまるに及んで、読んでみようかと買った『読んで!半七』で、うっかりドン嵌りしてしまい、図書館でちくまのハードカバー(何故か4巻からしかなかった)を借りて読みました。<br />
お、おもしれえ…というか岡本綺堂はすごいです 。<br />
<br />
半七捕物帳は、「私」が昔江戸で岡引として活躍した半七老人に話を聞く形で進みます。つまり、もう時代設定は江戸ではなくなっているわけです。そこが面白くて、例えば今○○になっているところは当時は××で、そこの角には絵馬屋があって…云々という描かれ方がされているわけです。つまり、少なくともこれが書かれた当時の人は、岡本綺堂の語り口を通して、江戸の生活を体感できたんです。<br />
このかき方が本当に尋常じゃなくて、何年に起きた事件だとか、昔は絵馬がブームになった時があってとか、まるで見てきたように書く細やかさがほんとにすごいです。<br />
多分、これは江戸っ子じゃないと絶対表現できないものだと思います。同じ時代に生きていても江戸っ子じゃなけりゃ絶対無理でしょうね。<br />
<br />
半七捕物帳はオカルティックな要素も多く含まれています。例えば、清水山という<怪異が起こるとされた小さな岡のような所に、白地の浴衣をきて手ぬぐいをかぶった女がいて、振り返ると女の顔は青い鬼だった( 柳原堤の女)とか、殺生禁断の川の鯉をとったら、濡れた女が現れ、鯉を取り返していった(むらさき鯉)とか。<br />
ただ、当然捕物帳なのでこれにはタネや仕掛けががあって、大概解決するのですが、これが江戸モノというか、時代物ならではのおおらかなところで、決して解決しない謎が1,2個は残る。それは昔はそんなに正確な所までわからないし、実際まだ妖怪や幽霊の類といったものが存在した時代だったから、それ以上追及しないわけですな。こうした描き方そのものが、江戸の時代の空気をかききっているかのようで、読みながら軽くタイムスリップしたような気持になりました。<br />
<br />
結構えげつない話や、エロティックな話も多くて捕物帳といっても非常に変り種です。「大阪屋花鳥」では、獄中で女が女の夜伽をさせて、むごたらしい目にあわせるところなんて直接的な描写がないにも関わらず、クラクラきましたよ(笑)。<br />
<br />
今回読んだ中で一番すきなのは『柳原堤の女』かな。半七は結構じらしておいてオチがわかったらなあんだ、ってことも多いのですが、これはミステリアスなものがミステリアスな展開を迎え、結局最後まで謎がわからないまま終わるという、最後まで幻想的な作品でした。岡本綺堂や泉鏡花の描く女は、どうも実体がなさそうな妖しさで実にいいです。ほんとに日本画の幽霊が出てきたようなイメージで…。<br />
<br />
あと、悪い奴はなんといっても「十五夜御用心」です。物凄い女が出ますよ。これ、殺す奴は物凄いペースで殺すよな。この辺、まだ日本人本来の荒い気性が残ってた江戸っ子らしさでもあるんでしょうね。<br />
<br />
量もものすごいので全部読むかはわからないんですが、あの手、この手で、よくこんなの<br />
思いつくなあというネタで楽しませてくれます。何個か読んでると段々こういうつながりかな、というのがわかってくるのですが、生々しい人間模様や、江戸の空気を楽しめる物語なので飽きがきません。ちくまのハードカバーの奴(いくつかでてるのかしりませんが)には、地図もついていて興味深いです。<br />
江戸っ子ならなおさらお勧めいたします。アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com2tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-62928830482672414182009-10-25T12:45:00.000+09:002012-11-20T21:36:00.604+09:00「ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅」 ヴァルター・ベンヤミン<em><b>…もっと近代風の言い方をすれば、人間は自分自身を裏切るのだ。夢見るナイーヴさの保護からは抜け出していて、そして自分のさまざまな夢に、余裕を持たないまま触れることによって、我が身をさらし者にしてしまう。というのも、余裕を持って追想しながら、夢について語ることが許されるのは、ただ向こう岸から、すなわち白昼からだけなのだ。こうした夢の彼岸には、ある種の清めにおいてのみ、達することが出来る。身体を洗うことに類似しているが、しかしそれとは全く異なるこの清めは、胃を通って行われる。朝食前の空腹のものは、あたかも眠りの中から語るように、夢を語る。―――p21</b></em><br />
<br />
<br />
まずは半七から、と思ったのですが、ベンヤミンの方が買ったのは早かったとわかったのでこっちから…。<br />
<br />
ベンヤミンの著作はとても好きで、2,3冊ぐらい家にあるんですが大抵の場合理解して読めません…彼の歴史学者や哲学者としての顔は私にはちょっと難しすぎてさっぱり理解できませんので…。<br />
やっぱ昔の哲学者の作品とかも読んでないと理解できないよなあ、こういうの。<br />
それでもベンヤミンを愛読しているのは、他でもなくかれの文筆家としての部分が非常に好きだからです。<br />
彼の文章はなんというか、非常に美しい。しかもその美しさは、装飾的な美しさや演出的な美しさではなく、本来なら心に去来したり、目の前にあったとしても余りに特筆するのに価しないように思えることなので見逃してしまうような、そういう一瞬の心や事象のひらめきを、あたかも彼自身の眼のレンズによって撮影された映画を見せるように、読者の前に晒して見せることです。<br />彼の感性はこんなにも色んな知識を蓄えた人とは思えないぐらいみずみずしくて、子供がなんの変哲もない物や人の前で立ち止まってじいっと見つめているかのように何か普通の人には見えないものをみている、そしてそれを物凄く慎重にかいている、そういう印象を受けます。<br />
<br />
そういう子供っぽい感性と同時に、ユダヤ人らしいウィットにとんだ表現も持ち合わせていて、例えば本書の本と娼婦を重ね合わせた文章(本と娼婦は、ベッドに引っ張りこめる、本と娼婦は時を交差させる。あたかも夜を昼のように、昼を夜のようにする…など)なんかは、まるで落語のようで非常に面白い。<br />
<br />
ベンヤミンの本は沢山出ていますが、これはタイトルからもわかるように、あくまで散文のように、そのベンヤミンのまだ批評に達していない心のひらめきをまとめているものです。<br />
心の迷路を町にたとえて、読者が彼の眼と共にさまよっていく「一方通行路」、モスクワやナポリなどを寓話的・歴史的表現で語る「町の肖像」、過去のドイツの偉人の手紙を通してドイツ人というものを考察していく「ドイツの人びと」など、どれも彼の鋭い観察眼と感性がほとばしらんばかりの非常に濃度の濃い本です。<br />
<br />
なんでしょうねえ、この感性は…並の人だと絶対失ってしまうか、変質してしまう類のものなのに、それを年をとって得た知識や表現力によって非常に高度のものまで昇華させている。文章の美しさは小説のようで、意味がいまいちつかめない私のような脳味噌の持ち主でもなんだか読んでしまうんですよね。<br />
<br />
また、彼はユダヤ人というのもあるのですが、ドイツにありながら外からドイツ人を眺める、ということもできる人で、ドイツ人がヨーロッパ人に、彼らと付き合っているとホッテントットとつきあっている気がする、といわれるのは何故なのか、といったようなことも、冷静に見つめていて、こういうのも面白いです<br />
(というか、そうなんか…ドイツ人他のヨーロッパ人ともちがうんか…)。<br />
<br />
上に上げた引用は、この本の中でも大好きな文章。<br />
<br />
全文は長いので引用できませんが民間の言い伝えに夢を朝食前に語ってはいけないというものがある、という話から始まり、それは朝食を食べることによって、体の奥にとどまっている夢を洗い流すのだ、といった文章は非常に美しく、また食事というものを一種の夢をおとす儀式として考えられている発想に読みながら眼からうろこが落ちたんでありました。<br />
<br />
からくり時計の細かな動きや子供の態度、切手の役割にいたるまで、観察と豊かな想像力によって膨らまされた記憶はもはや個人のものを超えて、私達が共有できるものになる。こうした何でもないことをどこまでもどこまでも見つめ、考えるということは、ベンヤミンのような豊かな感性を持ってない人間でも、発想するヒントになるんではないかなあ、とも思います。<br />
精緻な文章は読みながら疲れるので難易度は高いですが、是非どうぞ。<br />
<br />
アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-5499030218328679692009-07-13T18:06:00.000+09:002012-11-20T15:09:47.174+09:00「虎よ、虎よ!」 アルフレッド・ベスター<b>「あなた方は皆奇形なのです。しかしいつでも奇形だったのです。人生は奇形です。</b><br />
<b>だからこそ、それがその希望であり栄光なのです」――p422</b><br />
<br /><br />
ご無沙汰です、って毎回これだな!下の記事見たら、読みにくくてびっくりしました。改行せねば…<br />
ちょっと印象に残ったセリフをのせてみることにしました。引用なら許される・・・はず。<br />
<br /><br />
今回はベスターの「虎よ、虎よ!」です。<br />
個人的に非常に思い入れあるSFです。長編SFはあまり読まないのですが、その読まない中だとレムの「ソラリス」と同じぐらい大好きな作品。初めて読んだのは結構昔ですが、図書館で借りて文庫本に顔をくっつけんばかりにして読みました。しかしもう廃盤になっていて買えませんでした。<br />
今はちゃんと復刊していて、久しぶりに読みたいと思ったので購入。<br />
<br />
物語の背景は、ジョウントと呼ばれる精神感応能力が当たり前のように使えるようになった未来です。<br />
ジョウントの発達のために犯罪は増加し、内惑星と外惑星の経済的バランスが崩れてあちこちで戦争状態となった、世紀末的な暗い世界を背景に話が始まります。<br />
<br /><br />
物語はある宇宙船から始まります。敵から襲撃を受け、破壊された宇宙船の中に取り残された一人の男。彼は極限の状況下の中、生きるか死ぬかぎりぎりの賭けを続けながら生存している。粗野で頭の働きは鈍いが、非常に剛健な男、彼はただ仕事をし、友人は少なく、特に人にも愛されないなんの変哲もない男だった。ただこの状況におかれるまでは。<br />
<br /><br />
そうして生きながらえている中、一筋の希望の光が見える。他の宇宙船が視界に現れたのだ。彼は躍り上がり、必死に閃光信号を送る。しかし、その宇宙船は彼を無視して、通り過ぎていってしまう。そのとき、彼は平凡な男であることをやめた。<br />
「貴様は俺を見捨てたな、仇を取ってやるぞ、滅ぼしてやる。殺してやるぞ」<br />
宇宙船への復讐に取り付かれたこの男、ガリー・フォイルが、この物語の主人公である…。<br />
<br />
正直、こんなにレビューするのが難しい小説もあんまりないと思います。<br />
ガリー・フォイルの復讐譚として始まるんですが、色んな要素が判明していくにつれて、フォイル自身もどんどん変化していき、物語の目的も当初の復讐から外れたものになっていく。最初読んだときも、復讐の物語をベースにした冒険ものだな、なかなか重くていい、と読み進めていっていたんですが、どんどんどんどん離れていってしまうんですよ。<br />
兎に角、色んなアイデアが詰め込まれていて、ごった煮状態。エンターテイメントのような、SFでしかできない哲学的な物語なような、ロマンスもあるし、なんというか、ほんとごたごた。<br />
<br />
それでも、軸がぶれているように思えないのは、やはり主人公の存在。<br />
最初はどうしようもなく動物的だったフォイルですが、様々な経験を経て、知的な部分を備えた人間に生まれ変わります(ちょっと寂しいんですけどね、コレ)。<br />
しかしやはりベースにあるのは復讐。彼が狂気につかれたように、復讐相手を求め続けるところだけは、どうやっても変わらない。<br />
実は間間にロマンス的な部分もあり、読みながら、女のせいで優しい人柄になったりしたらやだなあと思ってたんですが、そんな心配は全然ありませんでした。彼は何よりも復讐。生活くささの微塵もありません。(てか、全体的にこれに出てくる女、問題多すぎてそこもグッドです。まあフォイルがあまりにもあまりな人格なせいもあるんだけど)<br />
この、変化しつつも根底の部分は変わらない主人公の存在こそが、ごった煮のストーリーを支えていると思います。虎のような刺青をした、マッチョで暗い主人公ってほんとたまりませんよ。<br />
<br />
なんといっても勢いが凄い。正直ちょっとトントン拍子に行き過ぎるんじゃとか、こんな主人公強くていいのかとか、疑問を抱くところもあるんですけど、そんな疑問をも無視して進んでいく、がむしゃらなフォイルの後姿についていくのに読者は必死になります。<br />
<br />
そして、思いもしなかった展開を見せるラストにいたるときには、もう途中で読むのをやめることはできません。<br />
復讐を求め続けてフォイルがたどり着いた所。もし最初を読んで、それからラストに飛べば、どう考えても納得いかないラストです。しかし最後までフォイルの背中を見ていると、彼が行き着く場所はここ以外にはなかったのかもしれない、と、すっと入ってきてしまう。<br />
この430ページ前後の作品の中で、フォイルは何度も死に、生き返り、それを私はずっと見てきていた。<br />
あの男が、あんなふうに宇宙船の中で呪詛を吐いていた男が、ここにたどり着いてきたことに、驚きを覚えると同時に、一種の安心感も覚えました。<br />
<br />
そしてそこに来て、「もうフォイルの物語を読むことは出来ないんだ」と、キャラクターが素晴らしい小説を読むたびにかんじる、一抹の寂しさと、面白い小説を一気に読了した後のドキドキが暫く胸を離れませんでした。<br />
<br />
正直、あまり文章がうまい作家さんではないでしょうし、今見ると古いところも少しある。それでもそんなのは些細なこと。どんな力技でも許されてしまうのです、ガリー・フォイルが主人公である限りは。<br />
<br />
兎に角、私にとっては非常に特別な小説です。<br />
読者を選ぶかもしれませんが、主人公に読者が振り回される快感を、是非味わって欲しいです。<br />
あと、「サイボーグ009」をみた人なら、いかにこの作品が影響を与えているかに驚くかも。いくらなんでも、モロにパクりすぎだよ、奥歯の加速装置とか(笑)。<br />
<br />アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-6267216278112295752008-12-01T23:20:00.000+09:002012-11-20T00:07:54.180+09:00「群雲、関が原へ」岳 宏一郎お久しぶりです。本自体は結構なペースで読んでましたよ。<br />
<br />
<br />
最近、戦国時代にハマっています。元々好きではあったんですが、最近良質の戦国小説にめぐり合い、ああこんなに面白いものなんだー、と深くのめりこみました。<br />
一時期に比べてだいぶ研究も進んでいて、所謂「そのとき歴史が動いた」的解釈はもはや通じなくなっていますし、何かを悪、善と決め付けて批判する人も減ってきているのではないでしょうか。<br />
<br />
その戦国研究や、戦国時代への見方への新たな入り口をはっきりしめしているのが、岳 宏一郎の「群雲、関が原へ」だと思います。この人これがデビュー作なんですよね、凄すぎる。<br />
<br />
関が原はよく取り上げられるテーマですが、この作品は視点が非常に面白いです。<br />
普通関が原というと東軍と西軍、家康と三成という二人を中心に展開しがちです。この小説でもこの二人は勿論、大きな中心ですが、とてもよくできているのは、関が原の戦いというものが決してこの二人の対立という単純な構造で語られていないことです。<br />
<br />
今でもたまに、戦国時代の武将を語るに当たってあいつは裏切ったから汚い奴だ、という感じでけなす人が結構います。また、近代以降に成立した武士道を戦国時代にもちこんで精神論を語る人もいたりしますが、戦国時代というのはまったくそういう清廉な精神からは遠いものなんですよね。私もまだぺーぺーなので語れる知識はそれほどありませんが、少なくとも裏切る=武士として失格という考えがなかったことは明らかです。むしろ無能な上司は裏切られて当然であって、この時代の忠誠心というのはやはり優れた人に仕えるときにどれぐらい自分の力を示すことが出来るか、という点だったのではないかと思います。<br />
「武士道は死ぬことと見つけたり」で知られる葉隠なんてものがでてきたのは、侍が非戦闘員化してからのことあり、これは少なくとも戦場で戦う人間の心がけではないし、こんなのは国を背負う一大名にはまったく必要のない思想です。<br />
<br />
じゃあ戦国時代の武将がどのように生きてきたのか、という点を、膨大な資料(巻末の参考文献が凄いー)をもちいて、また豊かな想像力で描ききったのがこの小説だと思います。<br />
戦国時代の武将は所謂「死にたがり」ではない。むしろ、出世や自分の家が残ることなどの執着は現代人とは比べ物にならないかもしれません。それは見ようによっては未練がましいかもしれませんし、単純な武士道というものとは大きくかけはなれています。<br />
けれども、だからこそ今までの単純なイメージとは異なり、何かを賭けて、乱世の中なんとか生き残ろうとする戦国武将のしたたかさが見えてくる気がします。<br />
<br />
この小説は多数の章でなりたっていて、中には非常に地味な者もいますし、そうでなくても関が原という直接対決には殆どかかわりのないように思える人々が多く出てきます。しかしこの小説のキモは、今歴史に深く名を刻んだわけでもない人々が、厳しい乱世を何とか生き残ろうとして、また出来るだけ多くの石を手に入れようとして、それぞれの思惑で、恐らく最良であろうという選択をその結果がどうであれ、確かにやってきたのだと深く感じさせるところにあります。<br />
<br />
これが描いているのは、小早川のようなキーファクターだけではなく、小さな人々、大きな人々の思惑がからまりにからまりあって、結果的に最後は東軍の勝利に終わったというその過程です。読みながら凄いと思うのは、こっちはもちろん関が原の結果を知っているんですけど、読んでいてまったくその結末を知っていることのつまらなさがない。それは情勢のゆらぎが東に傾いたり、西に傾いたりを繰り返しており、そのゆらぎの原因が単純でないことゆえの読めなさからくる、なんともいえないスリルが存在しているから。<br />
それぞれの小さなファクターが積み重なっているからこそ、東軍が勝利したという部分を一概に小早川の裏切りや石の違いだけで語ることが出来ない、これがこの小説の関が原だと思います。<br />
<br />
凄く感心するのが、これだけ資料をそろえ研究し尽くされたものなのに、小説のキモであるところの、登場キャラクターの造詣に並々ならぬ魅力を感じるところです。<br />
例えば司馬遼の関が原は面白いけれども、キャラクターが非常に単純に描かれている気がします。わかりやすいというか、いわばマンガのキャラのように読みながらサクサク入っていける、そんな描かれ方です。<br />
でもこれは全然違って、逆に複雑で奇妙なキャラクターが多く登場する。しかしながら、彼らには彼らで思うところがあったり、過去の経験がありきで行動しているので、それにまったく反発を感じないんですよ。しかも歴史小説によくある身びいきというものがまるでなく、できるだけ平等にかこうとしていて、それが非常にキャラクターを親しみやすく魅力的にみせていて素晴らしいです(それでも、上杉景勝と黒田如水は大好きなんだろうなあと思いはしますが)。<br />
<br />
いわゆる「コイツはアホだから」「コイツは不忠者だから」こういう風に行動した、という単純化がない。逆に「義が厚いから」という理由で行動する人間もいない。(石田三成はやはり理想家にかかれていますが、それはそうだろうなあと思う…)<br />
皆非常に損得はかりにかけて行動している。例えば大谷刑部は、ハンセン病にかかっており、最後には目も見えず足もきかず、それでも采をふるって最後まで西軍で戦い続けた人で、私も大好きなんですが、この人はよく義将の代名詞として描かれます。<br />
しかしこの小説では最初は家康方につこうと考えている、現実主義な人間としてかかれています。なりゆきで西軍につくことになり、そうしたあとからも、三成に対する義というよりは「自身が美しく散るため」(何せ彼は不治の病ですから)という彼の目的のために、戦うんですね。そのちりぎわはやはり見事ですが、今までの義の将とは違ったイメージで、一種の悲惨さが漂っています。こうした個人の目的がそれぞれ異なっているというのが、最後までこの長編をあきさせない理由だと思います。いや、ホント素晴らしいですよこのキャラ造詣。好きにならずにいられないんですもん、皆。<br />
<br />
西軍の勇将、島左近の首が上がらなかったことについて、「馬などにふみつけられ肉塊と化したのであろう」的描写も感動しました。そこにあるのはかっこいい死や美しい死ではなく、まさしく生々しい死であり、人間の生死なんですよね。<br />
戦国時代の大名も生きていた、決して雲の上の人ではないし、また100%軽蔑されるべき人間なんてものは存在もしないのだということを、読んだあとしみじみ感じさせてくれます。義だ情だ、武士の魂だ、というイメージにうんざりした人は是非どうぞ。<br />
<br />
正直戦国時代モノじゃ屈指の面白さじゃないですかねえ。とりわけ色んな大名に対する知識がある人ほど、興味深く読めると思うのでオリジナル要素が多めに入った、例えば「真田太平記」なんかが苦手だった人も面白く読めると思います。<br />
<br />
あ、あと来年の大河。正直原作はほんとウンコなので、あわせてこっちも読めば景勝がカッコいいんでヘンな意識を植え付けられなくて済む気がします。<br />
景勝好きとしてはあれほんと許せないんですけど。とばっちりで直江嫌いになった…なんてネガティブキャンペーンだ…<br />
<br />アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-17237151932122674142008-09-20T18:03:00.000+09:002012-11-19T23:47:13.992+09:00「ずっとお城で暮らしてる」シャーリィ・ジャクスン久々に紹介するのは「魔女」とも呼ばれるかなりの怪人作家、シャーリィ・ジャクスンの「ずっとお城で暮らしてる」です。<br />
<br />
主人公はメリキャットという少女。コンスタンスという姉、少々認知症ぎみのジュリアンおじさんと一緒に暮らしています。他の家族は、晩餐のときにブラックベリーにかけられた砒素が原因で死んでしまい、そのために村人たちに疎まれておりちょうどその時料理をしていたコンスタンスにいたっては外に出ることすら出来ません。そんな彼女達のもとに、従兄弟となのる男が訪れてきて、少々ネジがはずれながらも平和な生活はかきみだされていくことになる…というのがあらすじ。<br />
<br />
なんといってもこの作品の凄いところは感情移入できるキャラが一人も登場しないことです。これはけなしている訳でもなんでもなく、この作品の途方もない魅力だと思います。よく感情移入できるキャラが大事などといいますが、ホラーという分野においてこれは必ずしも当てはまらないと思います。人々が恐怖を感じるものっていうのは逸脱であり、個人にその判断の差があるために逸脱を描くことはとっても難しいことでもあるのですが、とにかく「何かが違う」「何かがおかしい」という感覚の薄気味悪さ、不愉快さはかなりのものです。<br />
<br />
大体において、この逸脱した理解できないキャラクターは感情移入できるキャラクターと一緒に投入されるのが常ですが、この作品にはそんな気の利いたキャラなんて一人もいません。ありていにいうと皆キ○ガイばっか。キ○ガイ博覧会です。<br />
<br />
例えば一緒に住んでいるおじさんですが、家族が死んでしまった事件のことをとてもはっきり覚えており、あろうことかこれを生涯かけて小説にしようなんて考えてます。常にそのことしか考えていない。しかもボケかけているのがこれまた怖い。「砒素のことをどう思うかね」とかいう人と普通の神経をもってる人なら朝飯食いたくないですよ。<br />
<br />
主人公のメリキャットにしても大概で、外界から入ってくるものに対する憎しみの向け方たるやハンパじゃありません。呪いめいた行動にでることもあり、本当に恐ろしい子供です。よくホラーででてくる大人びてるくせに妙に無邪気で恐ろしいガキがいますが、あんな感じです。子供嫌いに拍車がかかる恐ろしさです。<br />
<br />
ですが、この狂気は屋敷におしこめられ、内包されているものであって、表向きは非常に穏やかで、美しい品位のようなものを感じさせます。キ○ガイ博覧会とかいっといてなんですが、この三人の生活を眺めるとき、外界の残酷さから逃れたこの小さな世界は、歯車が狂っていながらもとても平和で美しいものであると感じます。そしてふと気づくんです。私はメリキャットやコンスタンスやジュリアンおじさんに嫌悪を覚える資格があるのか?と。私は彼らを忌み嫌っている無知で品のない村人たちと同様なのではないか?そして私がメリキャットやコンスタンスのようにならないという証拠はどこにあるんだ?と。<br />
<br />
メリキャットの狂気は一つの勇気ではないのか。外界の穢れたものを見下ろす、神聖な高潔さの表れとして狂気があるのではないのか。彼女達の狂気に不快感を感じている自分こそがまさしく彼女達を狂気におとしいれたあの村人たちと、同等の低俗さをもっているのではないのか。<br />
<br />
この小説の不思議さ、奇妙さをよりいっそうかきたてているのが、その読後感です。あたかも狂気も残酷さも失われたかのような、優しい読後感。それと同時に読み終わった人の心に、「ああ、メリキャットとコンスタンスはまだ生きている」という、不気味で恐ろしい実感をも感じさせます。<br />
<br />
とにかく言いようのない、ホラーの怪作中の怪作。死んでもよむべきです。戦慄します。ブラックベリーに砒素をまぜちゃだめ!絶対!<br />
<br />
<br />アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-18683687232646798622008-05-28T13:42:00.000+09:002012-11-20T15:12:26.894+09:00「パリのダダ」ミシェル・サヌイエダダイスムはいわばシュルレアリスムの前形態ともいえるもので、革命的な方向性がより強く、基本的な概念は「芸術の破壊」です。<br />
この革命的かつ非常にカッコイイ芸術運動の始まりは意外なことにチューリッヒ。トリスタン・ツァラという小柄な男が、芸術界を揺るがす大きな運動を巻き起こしたのでありました。<br />
<br />
本書はダダイスムをパリを中心として捉えた、ダダ・シュルレアリスム研究の古典ともいえる必読書です。<br />
綿密な調査に基づいており、「ダダイスムとはどのように起こったのか」を知る上ではぜひとも読んでおきたい本です。それに批評めいたことはあまりかいていないのでとにかく読みやすい。凄い厚さですがさくっと読んでしまえます。<br />
<br />
これを読んでとにかく惚れるのが、トリスタン・ツァラでしょう。後にシュルレアリスムを担うことになるブルトンらは、遠くチューリッヒで起こったダダイスム運動に心躍らせ、ツァラという男をパリに招き、その訪れを心待ちにしていました。<br />
しかしやってきた男はぶかぶかの外套をまとい、七三の髪を額にたらした片メガネの「日本人のような」男。しかもフランス語が致命的にヘタクソで、「ダダという2音節の言葉すらパチパチはねて聞こえ」るというありさまだったので、ブルトンたちは非常にガッカリしたのだとか。しかも笑うと顔面崩壊してキモかったらしい。(でも写真見るとかなりの男前なんですよねえ。ブルトンたちはどんなの想像してたんだろう?ダンディ?)<br />
<br />
しかしツァラの行動力、その言葉の持つ攻撃性と、人を煙に巻くユーモアは、パリの芸術界を巻き込んでいきます。今から見ると少々イロモノめいてみえる劇等も非常に効果的で、皆を驚かせ、嫌悪させるのに十分でした。<br />
「ダダは何も意味しない」といいはなつ彼は飄々とした詐欺師そのもので、彼の作り出したダダという言葉は彼の手の中で明滅しながら、様々な人々をひきつけていきました。<br />
<br />
んがしかし。ダダイスムはただ彼だけの功績ではありません。どんな運動でも広まらなくては意味がなく、広めるためにはただ適当に劇場のっとりテロをやるだけではなりたたない。ツァラの大きな助けになったのがフランシス・ピカビアです。<br />
大柄で、車の大好きな典型的な金持ちといった風情の彼は、画家でもありましたが金を集める能力にも長けていて、彼が作った雑誌、彼の打った宣伝がかなりダダイスムという活動の支えになったのも確かです。<br />
彼は自分の本音をうまく包んでおくことができる男で、ツァラをそれを品がないほどにむき出しにする男。この二人のバランスが非常にうまくいっていたのだと思います。<br />
<br />
後にダダは「死に」ますが、ツァラはむしろダダイスムそのものが死ぬことを予期していたし、死ぬことに意味があるとみなしていたようです。つまりツァラにとってダダイスムは芸術という伝統を破壊していく革命であり、その後に何かをうちたてようとするものではなかったのではないかと。<br />
それに対してブルトンはあらゆるものを壊すというやり方はこのまない人であったのだと思います。この違いが、二人の決裂の原因にもなったと思うのですが、この本は大体ダダイスムの死までで終わっています。<br />
<br />
マン・レイの伝記本に私の好きなツァラの写真が載っています。<br />
ちょっとよそゆきっぽいかっこつけた写真で、あの細い鋭い目でこっちを眺めながら微笑んでいる、皮肉っぽいいつもの顔です。これには若きブルトンの写真ものっています。アラゴンと並ぶ若き日のブルトンの横顔。後に畏怖を抱かせるほどの威厳をもつことになる、あの品のある横顔です。<br />
二人の写真を見ながら、二人の違いに心を馳せると、当時のパリを包んでいた芸術革命の熱気が伝わってくるようにも思えるのでした。アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-35116256013799151402008-03-24T23:46:00.000+09:002012-11-20T15:13:11.183+09:00「ナイフ投げ師」スティーブン・ミルハウザーミルハウザーの「ナイフ投げ師」。これ、凄く評価が高いみたいで色んな所で紹介されています。<br />翻訳者も柴田さん。この人の本ならまず間違いない、という翻訳者さんです。<br /><br />短編集なのですが、かなり変り種です。どこがかわっているかというと、設定そのものもそうですが、それを自然と容認している空気がとても不思議です。<br />どんなことかというと、古い友達が結婚したと聞いていってみると、相手はデカいカエルだった、という話があります。普通だったらこの出来事そのものが驚くべきことで、それだけで友達を問い詰めたり、その場から逃げたくなったりすると思うのですが、主人公は割とあっさりコレを受け止めてしまうんですね。<br />
そして友達の変わり者ぶりに呆れながらも、カエルとの情事を想像して不思議な気持ちになったり、彼女の美しさを発見したりして、最後は一人寂しくまた帰って行きます。昔の友の変化を見たときの哀愁と、ちょっと気の抜けたユーモアがあって面白い話です。<br /><br />他にも、遊園地の開発にこだわるあまり、とんでもない次元まで改造し尽くしてしまう話(個人的にはコレが一番面白かったです)もあり、この遊園地そのものもかなり突拍子もないもの(遊園地に裏街が存在し、娼婦がいたりする)なのですが、これもまた、淡々と語られています。<br />変人、変なものをあっさり容認してしまうこの懐の広さが、全編を貫いていて、少々恐ろしい話でもあるにも関わらず、どこか間が抜けて映ります。<br />
<br />それと色んな批評家や柴田さんが強調しているように、語りの凄さが素晴らしい。精密な描写が延々と続きます。それ故に、少々純文学を読んでるような気持ちになってしまって、続けて読むとちょっと飽きちゃいました。少しずつ読んでいく方が体力が持っていいかも。読むのに体力が要る本です。<br /><br />少々変わった設定と、著者の語りの凄さがあいまって、なんとも濃い~作品です。読後感が妙な小説が読みたければ是非どうぞ。ただ感情を揺さぶられるとか、そういう感じの作品ではないです。<br /><br />関係ありませんがこの間NHKの週間ブックレビューみてたら、コレとジャネット・ウィンターソン、それともう一つ海外文学(タイトル忘れました…あれも気になってるんだけど読んでないなー)を勧めてて、ああ、海外文学ファンのツボはどれも同じだなあとしみじみしました(笑)<br />アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-45832926846162664592008-02-23T15:06:00.000+09:002012-11-20T15:11:22.781+09:00「死ぬときはひとりぼっち」レイ・ブラッドベリさて今回はブラッドベリです。まだあまりスタージョンが広まっていない頃、スタージョンとブラッドベリは同列に語られることが非常に多かった。<br />
ブラッドベリ自身もスタージョンに対して嫉妬した、というようなことをいっていますので、確かに共通する所も多いのかもしれません。<br />
なんで例えられるのかというと、二人ともやっぱり孤独を扱うのが非常にうまい、というか孤独に対して非常に真摯な目を向けている作家だからだと思います。ただ、スタージョンはその根底に奇想があって、ユーモラスな設定と世界観の中の孤独な人々、という書き方ですが、ブラッドベリはその背後の世界も何か、切ないノスタルジーを呼び起こすものであることが多いのではないでしょうか。私はブラッドベリに関してはそんなによんでいないので判らないのですが。<br />
<br />
で、これはSFではないです。ハードボイルドというジャンルになっています。なってはいますが、質感は全くの別物という感じがしました。<br />
そもそも主人公からしてイメージと違います。彼の顔の形容詞としてでてくるのが「アップルパイ」。ふとっちょです。おそらく童顔。そしてお菓子が大好き。小説家で怪奇小説を書いてますが全然売れてません。「トスカ」を聞きながら涙をこぼしてしまうような男です。<br />
<br />
彼が探偵役となるわけですが、彼は決して証拠を組み立てて事件を推理したりはしません。直感だけ。彼の身の回りの人々が皆、事故で次々と死んでいくのですが、彼はそれが事故だとはとても信じられない。<br />
彼の知り合う人々は皆、孤独で『変わった』人たちです。死んでいったり消えていったりしても疑問にも思われない人たち。<br />
「カナリア売ります」の貼り紙をドアにはり、その鉛筆の線が消えるまで孤独に待ち続けた老婆、音楽が大好きで、過食症の優しい大女、老人になっても身体だけは彫刻のように美しくあることを願う男。<br />
こうした人々の間に、死の影がおちはじめ、何かが少しずつ変わっていきます。<br />
<br />
推理する部分があるわけではないので事件物としては全然読めません。ただとにかくノスタルジックな、ヴェニスという町(イタリアじゃなくてメキシコ)、この霧のかかった憂鬱な町にすむ、個性的な人々がとにかく面白いです。<br />
主人公が事件が起こっていると確信し、頼りに行く刑事がいるんですが、この人がまたいいんですよ、ハードボイルドものならこの人が主人公だろっていうぐらい渋い。最初は主人公のことをうっとおしがるんですが、そのうち打ち解けて彼の話を真面目に聞くように<br />
なっていきます。彼も実はこっそり小説を書いているんですよね。<br />
とにかく登場人物が多くて、彼らの住んでいる環境がとてもノスタルジック。遊園地や古い映画館、張り紙が沢山貼られた寂れた昔の通りなど、なんだか古本屋に入ったときに感じるあの匂いのようなものが、行間から漂ってきます。<br />
<br />
そして孤独。この素晴らしいタイトルが、この町に住む人々そのものを如実にあらわしています。死ぬときはひとりぼっち。そして彼らは本当にひとりぼっちで死んでいく。登場人物が魅力的なので、死んでいくたびにつらくてつらくてたまらなくなります。<br />
そしてそれだからこそオチには正直ちょっとがっかりしました。こんな酷いことやるにしてはあんまり殺人鬼が普通すぎるんですよね。これだけはどうしても読んだ後に許せなかった。<br />
<br />
しかし兎に角偏執的なまでに細かい繊細な描写と、登場人物の魅力、そして死ぬときはひとりぼっちというテーマそのものが、非常に素晴らしい小説でした。<br />
ブラッドベリもいいなあ。今度は「火星年代記」を読んでみよう。<br />
<br />アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-35225588695730528542007-12-27T13:10:00.000+09:002012-11-20T15:14:18.282+09:00「すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた」ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア結構前に読んだのにレビューしてなかった一品を。<br />
<br />
「たったひとつの冴えたやりかた」といえば、あああれね、と思い出す人も多いんではないでしょうか。女性作家なのですが覆面作家で、かのスタージョンは「今の男の作家はダメだよ、今のやつでいいのはJ・ティプトリーJrだけだね、」とうっかり失言をしてしまったこともありました。<br />
<br />
この作品集に入っている話は皆、メキシコのキンタナ・ローという場所が舞台になっています。しかし「メキシコの」というのは心理的には正しくなく、このユカタン半島のマヤ族が持っているアイデンティティは独立していて、「ユカタン的」ともいえるものである、と、オープニングの「マヤ族に関するノート」ではかかれます。<br />
<br />
こんな文化人類学的オープニングで始まるこの小説は、主人公のアメリカ人がそのユカタン半島に暮らしつつ、現地の人々から聞いた話という形をとっています。<br />
小説一編一編は間違いなく幻想小説。浜辺に流れ着いた、男とも女ともつかない謎の生き物、水上スキーの時に見えた幻、そしてデッドリーフの不気味な怪物…。<br />
しかしそこには同時に、文化人類学的、もしくは国際社会学的観点も存在しているように思えます。冒頭でいったように、マヤ族という特殊な民族とその土地を選んだこと、またキンタナ・ローという場所が現代はリゾート地として栄えていることが、意味を持っています。<br />
<br />
リゾート化は確かに富をもたらすこともあるでしょう。しかし市街地やホテル、クルーズ船によって垂れ流された汚水や化学薬品のおかげで海は汚れ、見る影もなくなっている。そのために汚れてゴミが浮き、珊瑚も育たなくなった海を舞台にした作品が「デッド・リーフの彼方」です。(この話、すげえ怖い。途中で主人公が一緒にきた仲間を見失って、海の真ん中で取り残されるところがあるんだけど、そこが本当に恐ろしいです)<br />
<br />
そうして観光化された中で、マヤ族の生活、マヤ族の土地という意識はすっかり忘れ去られている。そのマヤ族という存在が、作品自体の持つはかなさをよりかきたて、マイノリティ無視への警鐘をかきたてます。<br />
<br />
こういう社会学的な背景をとりこむことに納得いかない人もいるでしょう。実際、幻想小説として優れている作品群だけに、こうした背景をもっていることに意味があるのかは疑問です。<br />
ですが読み終わった後に、今こうしている間にも消えようとしている文明や土地があるんだというショッキングな自覚をもつ瞬間というのが、確かにあり、それは非常に珍しい読書体験だと思います<br />
<br />
こうしていうとなんだか説教臭い小説のようですが、全然そんなことはなく、幻想文学としてもかなり楽しんで読めることは確かです。ただ読み終わったあとに私はマヤ族、キンタナ・ローというものの直面している危機のほうが、より強く印象に残ったんですよ。世界幻想文学大賞を受賞した作品でもあり、ハヤカワのプラチナ・ファンタジーシリーズで、文庫で薄いので500円ちょいで読めるという手軽さもいいです。是非おすすめします。<br />
<br />アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-51458064076918099152007-12-24T13:48:00.000+09:002012-11-20T15:16:47.035+09:00シオドア・スタージョン『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』というわけで、スタージョンの新訳キタキタ―!という割に姉に言われて初めて気付き購入しました。<br />
本当にもう最近河出頑張りすぎなんですよ。幻想とSFで頑張りすぎ。いい出版社だ。<br />
まあ兎も角、この奇想コレクションのスタージョンシリーズも3弾目となるわけです。<br />
最初の『不思議のひと触れ』が2003年、『輝く断片』2005年。結構立て続けにでたところから、現在スタージョンはちょっとしたブームなんじゃないかと予想。<br />
<br />
さてこのスタージョンシリーズ、前回までは編者は大森望さんでした。もうスタージョンヲタの中のスタージョンヲタともいえる人ですが、前回の二つは両方とも彼なりのテーマが感じられる選集でした。<br />
輝く断片はSFファン以外にむしろ心に訴える、ちょっと悲しい結末を招くミステリ系。不思議のひと触れは幻想系の美しさと、スタージョンお得意のちょっと理想主義だけれども、思わず憧れてしまう奇跡のラストを持った作品集。<br />
<br />
そして今回の編者は若島正さん。晶文社の『海を失った男』を訳した人です。今回もテーマが設けられていて、あとがきを見ると、あまりに特異なので「スタージョンだと読んで一発でわかってしまう」もの、という、スタージョンの中でも特に個性派をそろえたようなのです。<br />
<br />
といっても、今回の個性派は今までのような『ヘン』な小説とは一線を画しているように見えます。『昨日は月曜日だった』『‘ない‘のだった!本当だ!』のような、考え方そのものが奇想、というよりも、視線の向け方、何気ないことへの思考の転換が個性につながっているような作品が多いような。(スタージョンは結構根元のプロットを見ると、かぶってる話も多いんですよね。アレンジするだけで)<br />
<br />
とりあえず私が一回とおしで読んで一番気に入ったのは『必要』。<br />
今まで誰かが必要としたから、これからも誰かが必要とするだろう、という信条に基づいているある種の店(「『すべて』ではなく『なんでも』が売っている」、と表現されています。つまり、大手のあらゆるものが揃うストアではなく、なんでもかんでもごちゃまぜに売っている、万屋のような店なんですね)の店主、Gノートと、口が悪く人を不愉快にさせずに置けないゴーウィング。<br />
物語は彼らにスミスという男が追いはぎにあう所から始まります。スミスはほうほうのていで家に帰りついた挙句、電話が通じなかったという理由で奥さんのエロイーズに浮気の疑いをかけ、非常に冷たい扱いをしますが…。<br />
<br />
Gノート(スタージョンによくある心は優しいけどブサイク)が凄いいい人なんですよねえ。ものづくりの達人でもあって、その表面ががさがさになっているだろう手を思うと心がほっこり暖かくなってしまいます。<br />
ゴーウィングも、最初はその性格の悪さが非常に不愉快なんですが、読んでいるとその心に秘めた苦悩が明らかになっていきます。個人的には私がスタージョンと聞いてイメージするのは、この手の作品。
(ちなみにこれ、帯の文章が<strong>猛ネタバレ</strong>です。読まないように注意。)<br />
<br />
他にも普通小説風のものもあって、『帰り道』『午砲』がそう。特に『午砲』はスタージョンの少年時代をもとにしたものらしく、やっぱこの人自身もこういうちょっと繊細で、アメ公らしくない思考の持ち主だったんだなあと思いました。内容自体もタイトルの理由も含めて、人物の会話の間に人間性がにじみ出ていていい。今まで紹介されてきた作品の中では珍しいタイプです。<br />
<br />
で、やっぱりこれのメインは表題作。タイトルも長いですが内容も長く、長めの中編ぐらいあります。内容としては同じ下宿にくらすそれぞれ個性的な人物が、宇宙人のある実験に使われ、それによって変わって行くという、スタージョンにしては結構ベタな展開となっています。(この『実験』自体がかなりかわってるんですがそれは読んでいただくとして)<br />
自分の家柄ばかり気にしているオバニオンと、何故かその偏屈と仲良しな子供、ロビンとその母親、ハリウッド女優という狭き門をくぐることが夢だが何一つ前進せず、常にイライラしているホーント、そのホーントとぶつかり合っていつもびくびくしている臆病な女性、ミス・シュミット。<br />
<br />
そして特筆すべきは、何もかもを理詰めに考える能力をもった職安職員、ハルヴォーセンかと思われます。彼は最近常に『死にたい』という欲求に駆られ、『何で死にたいんだろう』と疑問を覚えます。彼は自分が不適格だと思っており、その理由は彼が、猥褻な広告や性的な映画、そうしたものにまったく興味をもてないからで、そのために生きていてはいけない人間だと思い込んでいるのです。<br />
<br />
スタージョンの小説には不適合者というのはよく出てきますが(そしてそれは大抵孤独で、それが奇跡にであったり、もしくは改心できないまま不幸な結果をたどることもある)、アセクシャルの人間はあまりいないのでは、と巻末で若島さんも解説しています。<br />
この小説の人物達は、そもそも自分の欠点の原因に殆ど気付いていない。そうしたことさえ考えたことが無いんです。しかし宇宙人の介入により、彼らはそれを『自分で』見つけ出す。自分自身というものに対して初めて「悩む」。そしてそのもやもやを抱いた時、ある出来事が起こると、まったく今までとは違った行動をとるようになるんです。<br />
<br />
ハッピーエンドの優しい話に、スタージョンらしい奇想が加わって(『偶然と思われたことが偶然ではない』という発想の転換)なんとも読後感のいい小説になっています。ちょっと長すぎで途中ダレるし、最後、たいしたヒントもなく、答えを導き出してしまうオバニオンには笑ったけど(何者だコイツ。コイツこそ宇宙人じゃないのか)やっぱり力作。<br />
<br />
他にも『火星人と脳なし』はタイトルまんまの話で、ユーモアたっぷり。笑えます。『解除反応』は記憶喪失をテーマにした作品で、主人公のここがどこかわからない躊躇いがこっちにも伝わってきます。(どうでもいいけどこの記憶喪失になってしまったトリックが何べんよんでも理解できません…なんだあの説明…)<br />
<br />
全体としては今までの2作よりちょっとパンチに欠ける気がしましたが、相変わらずの変化球と泣ける人物描写で最後まで目が釘付けでした。ありがとうスタージョン。ありがとう若島さん。<br />
<br />
あと最後に。スタージョンブルドーザー好き過ぎだろ。アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-65281248739532610892007-12-20T23:47:00.000+09:002012-11-20T15:18:34.152+09:00怪奇探偵小説名作選 9 氷川瓏集読んだのに書評を書いてなかった。時間がやっとできたので書きます。<br />
で、またちくまです。怪奇探偵小説シリーズは、まとめて読むのにはちょっと金がかかったり、手に入らない作家のものもあったりして、編者の日下さんはほんと、神様仏様光明優婆塞様でございます。ありがとう。<br />
<br />
んで、その中でもダントツで無名だと思われるのがこの人、氷川瓏。私もこれで見るまで名前すら聞いたことがありませんでした。<br />
とりあえず、書店でみかけたら冒頭の『乳母車』だけでも読んで見てください。たった3ページ。たった3ページなのに、ぞおっと背中を撫でるような読後感はなかなか味わえないです。
<br />
でもこの作品はざっと作品集みてると異例のもののようで、他は乱歩の中長編っぽい、ちょっとエロティックなミステリ風味の作品と、幽霊ものとがメインです。<br />
<br />
表題作の『睡蓮夫人』は、普通の幽霊ものとおもいきやラストでひねりがあって、幻想と現実の境目がぼやけたところが、なんとなくふっと寒くなる読後感を持っています。江戸川乱歩的危険度(なんだこの造語)でいえば、『風原博士の奇怪な実験』がなんとも危険。性転換の実験を受けた恋人(元女)に、抱かれたい!と強く妄想し女性に性転換する男の主人公の思考回路がなんともまあ…思うか?普通。そんなことを。(ちなみにこれは2段オチになっていて読み終わった後ちょっとがっかりすること間違いなしでございます)<br />
<br />
個人的に面白いな、と思って好きだったのは『白い蝶』。白い蝶に対して異様な恐怖を抱くことになった青年の話で、短編ながら(だからこそなのか)全編とおして緊張感と若干の狂気が感じられ、余韻を残すラストも、途中で読めるものでありながら印象的です。個人的にはこの人も乱歩と同じで、中編や長編より短編が好きだな。長くなるとなんだか中だるみして読み飛ばしてしまう。でも短編は緊張感があって、そうした文章的欠点も見えないし、中々いいです。<br />
<br />
その長めのもののなかでも一番気に入ったのは『洞窟』。中途半端な関係を続けながら、結局恋人になれなかった昔の思い人に、偶然出会う記者の主人公。彼は結局声もかけることができず、深く二人の思い出を残す洞窟へと戻っていきますが…。<br />
<br />
冒頭が殺人シーンで始まる、ちょっとドラマっぽい話展開と、この人の話には珍しく主人公のはっきりしない心情が描かれていて比較的目が滑らずに読めます。全体的に重たい雰囲気もあってエロティックでいいです。質でいえばこれがベストかな。<br />
<br />
オリジナリティのようなものはあまり感じない作家さんなのですが(どこかで読んだな、って話も多い)、幻想小説とミステリの交わるところに位置するような、そんな作家さんだと思いました。ようするに乱歩。<br />
幽霊ものは型にはまったものながら、少し時代遅れな奥ゆかしい女性の謎に満ちた雰囲気が色っぽく、基本的に未練がましかったり陰気だったりする主人公の目には、いかにも暗い色合いがにじんでそうで、なかなか魅力的です。新しいところはないけども、ある意味怪奇小説名作選を代表する作家なのかも。<br />
<br />
批判的にいいますと、あんまり文章が巧くないなあ、ってのと、どうも色恋ざたがメインで読んでて話展開が同じなので、途中で飽きて休んでしまい、いっきに読ませる力ってのを持ってる作家さんではないなあって所ですか。あと幽霊ものは雰囲気はいいけど、怖くない。冒頭の乳母車が一番怖くて、あとは橘外男の方が幽霊ものはうまいかなあと。<br />
<br />
個人的には日下さんのあとがきを先に読んでとても期待してたせいもあって、ちょっと期待はずれだったかな。<br />
比べるわけじゃないのですけども、これ図書館で借りて読んだのですが読んだ後近くにあった三島由紀夫の怪奇小説集を読んだら、話のもっていき方とか、キャラクターがいきいき動く様子とかが本当に凄くて、やっぱり日本人としては日本の作家にどうしても文章力を求めちゃうよなあ、と思いました。海外文学好きで翻訳ものばかり読んでいると、あまり気にはならないのですが。とにかく目が滑らない。退屈させない。目の前に風景がはっきり現れる。<br />
結構面白かったのでこれも購入予定です。読んだらこちらもレビューします。<br />
<br />アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-46975189416129871122007-09-24T00:44:00.000+09:002012-11-20T15:19:44.214+09:00「神州纐纈城」国枝史郎<br />
今回は「信州纐纈城」。纐纈はこうけつ、と読みます。纐纈城というのは宇治拾遺物語にでてくる話で、中国の故事であり、城の中で人に口の利けなくなる薬を飲ませて生き血を搾り取り、それで布を染めるという恐ろしい物語。<br />
<br />
物語は中心人物と思われる庄三郎という武田の家臣が、あやしげな人物から赤い布を買うところから話が始まります。それは人血でそめられた布としり、庄三郎はそれを手がかりに失踪した伯父と父を探しに富士山麓へ向かう。<br />
<br /><br />
中心人物と思われる、とかきましたがこの男、後半になるとさっぱり出てこなくなる上、出てきたと思うと富士にある教団にまぎれこんで割と平和そうにゴロゴロしてるので結構ズゴーって感じなのですが…まあとにかく、この話スタイルがちょっと変わってまして、主人公と思われる人がいない。<br />
沢山の登場人物が出てきて、それが場面場面かわるごとにきりかわっていく。この人物が魅力的なんだなあコレが。<br />
顔を作る造形師月子や、教団の創設者である光明優婆塞、武田家を抜け出した庄三郎を追う鳥刺しの少年甚太郎。でもなんといってもやっぱ一番魅力的なのは陶器師じゃないでしょうか。<br />
<br />
陶器師といっても焼き物をつくるわけでなく、旅人を竈にいれて蒸す野郎なのですが、こいつが鬼畜も鬼畜。なんでもかんでも『姦夫!』といっては切り捨て、人を殺すのになんの罪悪感も抱かない男なのです。<br />
人形のように無表情な恐ろしいほどの美男子で、剣の腕も立つ。血を求め、人を殺さずにいられないのですが、その狂気の間にはむなしさが見え隠れします。実は彼には過去もあるのですがそれは読んでもらうとして。<br />
でも、とにかく魅力的なキャラだよなあ。けだるそうに剣を佩いて現れ、真っ白な顔をして月夜のなかにゆらりたちながら、斬るかな、それとも突くとしようか、と呟くなんて、たまりませんよ。他にも美人&美男子率がかなり高く、個人的には所謂萌えを感じました。<br />
<br />
冗談は兎も角。この話、人類に大きな恨みを抱く纐纈城の城主(瀬病を病んだ、能面の仮面をつけた男)対富士の宗教団体(光明優婆塞という、まるで乞食のような、懺悔と己への罰を精神とする男)という図式になっております。<br />
<br />
富士教団はまるでユートピアのようなところ。しかし時折人狩りと称して纐纈城の人達が人狩りと称して人を攫っていきます。でその纐纈がどんなところかというと、これもまた一種のユートピアなんですよね。彼らは確かに囚われているけれども、いい服もきれるしいい飯も食える。ただ時折くじで誰の血が絞られるか決められてしまうのだけれども、多くの人はそれをよしとして動かずにいます。<br />
<br />
富士教団も少し似ていて、庄三郎は当初の目的を忘れてついだらだらとその楽園で過ごしてしまう。何か人をひきつける魔力みたいなものがあるんですね、その教団には。<br />
<br />
個人的には富士も纐纈もどちらが善でどちらが悪といいきれない部分があるように思えてなりません。私自身がユートピアというものに一種の胡散臭さを感じるせいか、あの富士教団には善人の集まりというより不気味さを感じますし、陶器師が光明優婆塞が、人が救われるのは懺悔しかない、とといたときにあざ笑うのにも納得できました。実際、本編で甚太郎の言葉から月子が、善と悪とははっきりわけられないものなんじゃないのか、と自問自答するシーンがあるとおり、全編に渡って、残酷だけれど悲しい部分を持った人々が沢山出てきます。<br />
<br />
富士の描写も素晴らしい。まだ未開で、危険な場所だった富士。そこに広がる発光虫の群がる洞窟、仏の掘られた岩壁。
グロテスクな描写も多く、あまり意味のない解剖シーンもあったり、終盤で瀬病患者が続々と集まってくる部分や、月子の造顔の様子までが非常な密度で描かれていて、なんとも血の匂いが濃い作品だと思います。てか読みながら最近読んだ奴で一番グロいと思いました。<br />
<br />
ただ、これ、未完なんですよね、しかも凄いいいところで終わる。これが未完であるという理由もわかる気がします。キャラクターがどんどんでてきて、話が色んな方向から進んでいくのは面白いんですが、逆にいうと話が凄くとっ散らかってるんですよね。キャラクターの性格もしょっちゅう変わっちゃってる印象も受けるし。(甚太郎とか、あいつはもっと残酷なヤツと思ってたからガッカリしたよ全く)<br />
<br />
『こういうストーリーをかきたいからこういう場面を書く』というより、『こういう場面をかきたいからストーリーをこういうふうにする』という練り方をしているように思います。だから風呂敷広げすぎてたためなくなったのかなあ。でも確かに風呂敷広げすぎたよさってものもあって、そのとっちらかった印象すらも混沌とした雰囲気を与えていて、味わいはあるんだけど。<br />
でもこういう話の途切れ方なら、本当に完成させて欲しかったなあ。伏線張りすぎて、ごちゃごちゃしててちょっとよみにくい。あんなにいいキャラクター描写や、風景描写があるのに本当におしいと思って歯噛みしてしまいますよ。<br />
<br /><br />
でも、ほんと、なんとも幻想的かつ血なまぐさい描写が素晴らしく、くるくる変わる展開に目がはなせなくなってしまいます。陶器師みたいな男何処かにいませんかね。斬り殺されたい。<br />
闇がある、狂気とか血とか瀬病とか宗教団体とか、このへんのキーワードにびっとひらめくものがあったら、是非開いて欲しいです。いや、ゴスを気取る人も絶対読むべきですってこれ。<br />
<br /><br />
かきながら思ったんだけど、この大風呂敷広げたってデビルマンだよな。あれはオチのつけかたが凄かったせいで返って評価が上がったけど。<br />
恐山にいったら国枝史郎に続きかいてもらいますよ、ほんと・・・<br />
<br />アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-44583034755832952592007-09-20T23:09:00.000+09:002012-11-20T15:20:36.562+09:00夢野久作についてちょっと今回は久々に作家について話してみようと思います。てかカテゴリ作ったのにスタさんしかないじゃないかこのカテゴリ。<br />
<br />
夢野久作といえば、何となく最近が旬の人、という気がします。というのは何故だかわかりませんが数年前から彼の名前が一般にも知られるようになってきて、今まで怪奇文学といえば江戸川乱歩か横溝正史かって感じだったのがこの人の名前も付け加えられるようになったような気がするからです。なんでだろ?なにかあったのかな?<br />
<br />
彼といえばドグラ・マグラですが、私としては短編を読むことを切に勧めます。『斜坑』や『卵』なんかがお勧めです。何故ドグラマグラを勧めないかというと長いんですよ、これ。兎に角長い。通しで読めばそのよさもわかるのですが、最初に読むにしては長すぎるし、その大半が小説の中に出てくる文書、というわけであまり勧められません。面白いんですけどね。チャカポコチャカポコ。<br />
個人的に長編はどうもぐだぐだになりやすい人の印象があり(多分独特のアクの強い文体に途中で飽きがきちゃうんだと思う)短編が好きです。<br />
<br />
彼を一言で言えば狂気の作家、だと思います。ものすごく私見だし、御子孫もお怒りになられるのかもしれませんが、彼は小説を書かなかったら殺人鬼になっていたんじゃないのか、とも思うのです。<br />
何故そう思うのかというと、彼の書く文章そのものがかなり『病んだ』印象を与えるからです。<br />
所謂『病んだ』小説を書く人は沢山います。さっきあげた乱歩もそれだと思います(正史はよんだことないの)。でもちがうんだよなあ。乱歩の病んでる加減は狙って描いてるって感じがするんですよ、その奇抜さや、グロテスクさで人を驚かせてやろうというような。久作は何か違う。乱歩が剃刀でしゅっと切った傷口ならば、久作の文章は何かで潰して膿んじゃったというような、何かぐちゃぐちゃした暗さ、みたいなものが確かに漂っている。<br />
<br />
まずはその独特の文体。カタカナを多用した文体はなにかしら人をぞっとさせるようなところがあり、また笑い声(アハアハアハ)や擬音(ダルダルと飲み込んでしまった)の表現がもうほんと独特で、もうこれはQさんじゃなきゃかけないです。<br />
これって笑えるんですよね。笑えるんだけど、薄くあげた唇のはじで笑いがこびりついてしまう。何だかぞっとするんですよ。おかしいのに。<br />
<br />
そしてこれは本当に色んな小説を読むたびに感じることなのですが、久作の場合特に顕著に、この人にしかかけない雰囲気、言葉で言い表すことの出来ない何かが作品に漂っています。<br />
例えば私が大好きな彼の作品、『斜坑』は炭鉱が舞台なのですが、オープニングから「ホォーーー…トケェ―――…サマァァ―ー」と始まります。コレは坑内で死んだ人が魂を残さないように、死人に場所をいいきかせながら死体を運んでいく、という場面です。<br />
これに代表されるように、全編不吉な匂い、またなんといいますか、田舎らしい野蛮な人の性質(これは差別的かもしれませんが、実際田舎を舞台にしたホラーとかって多いよね…)がまさしく行間の間に読み取れるんですよ。この雰囲気作りが本当に凄くて、彼の作品を2,3篇も読むと、もう暫くあの空気から逃れられないほどです。なんだろう、この才能というか、この自身が持っている病んだものに嫉妬さえしてしまうのですが、どうしたら本当にこういう空気まで書けるんだろうなあ。兎に角素晴らしい。<br />
<br />
あと後味の悪さも特徴の一つで、毎回毎回救われなかったりぼやぼやして終わってしまい、頭の中にいつまでもその場面だけが煙のように渦巻いていたりする。<br />
少し調べてみたら実際少し複雑な環境の人だったようで、やっぱり少し変わった感性の人だったんだろうな。まあこれは控えめな言い方だけど要するにキ印なんですよ彼の小説(ああいっちゃった)。<br />
もし読んだことないって人がいたら是非お勧めしたいです。軽くショックぐらいはうけると思います。ただこれを受け入れるかどうかは別問題ですが(笑)。<br />
<br />
お勧めは『斜坑』『いなか、の、じけん』『空を飛ぶパラソル』あたり。とくにいなかの~はまさしくQさんの代表作。私はハードカバーでもってますが文庫でも全集でてるみたいです。<br />
あ、あとこの人とか他の日本怪奇小説に代表されることですが、今から見ると差別とも受け取れる言葉は多いです。キチガイとかシナですね。まあそれがまた雰囲気あっていいんだけど、その辺駄目な人もいるかもしれないんで一応。<br />
<br />
どうでもいいのですがこの人とラブクラフトだけは写真見たときショックを受けました。夢野アゴ作…アゴクラフト…とか呟いてませんよ!断じて!<br />
そういや2ちゃんのアゴ…ラブクラフトスレは大好きなんですが、あんな感じでQちゃんスレもできないでしょうか。Q語で語りたいです。アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-90683758059055022392007-09-09T00:18:00.000+09:002012-11-20T15:21:27.215+09:00スティーヴン・J・グールド『ワンダフル・ライフ』さて、今回は私には珍しく科学書でございます。今更コレかよ、ってぐらい、一般人によく知られてる科学書だとも思うんですが。すいません。<br />
<br />
グールドという人は、一般向けの科学書やエッセイを沢山書いていて、それが読みやすく理解しやすいだけではなく、人文と重ねあわせ、人間の歴史まで述べてしまうところが非常に面白い人だと思います。エッセイを読んでいると、間から知的さがじんわりにじみ出てきていて、いやあもう、私大好きでございます。<br />
<br />
アメリカでベストセラーになった本です。アメリカ人のいいところって、ちょっと一般向けに向けられたりした本とかだと古生物学だろうが物理だろうが、なんでも「読んでみよう」て思う、あのパイオニアスピリットですよね。日本人だとどんなに読みやすくても敷居が高いと思う人が多そう。面白いのになあ、この手の。<br />
<br />
この本の主題は『バージェス頁岩』。バージェスからみつかったカンブリア紀の化石郡です。ナラオイア、オパビニア、アノマロカリス、ハルキゲニア。とりあえず知らない人はこの当たり、検索掛けてみてください。こんな生き物が存在したのか、と驚きと共に好奇心を刺激されるはず。<br />
<br />
まずバージェス頁岩とはなにか、ということから始まり、ウォルコットという人が適当に分けた分類を見直す計画にのりだしたハリー・ウィッテントンらの発見がメインにすえられています。<br />
この発見から、カンブリアというのは特殊な時代であること、またそれだけではなく、人の(少なくとも一般人の)進化に関する偏見も打ち壊すものであることが明らかになります。<br />
<br />
何故カンブリアが特殊な時代なのか。<br />
大体の人は進化の樹を思い浮かべるときに、ある偏見に基づいて思い出すはずです。つまり、下が狭くて上が広くなっている、あの形。少ない数から始まり、その『原始的な』生物から、『多彩な』今の生物が生まれてきた、という考え方です。<br />
<br />
カンブリア紀はこれに疑問を投げかけます。何故ならバージェス頁岩から見つかった化石の種類は現代の生き物より多彩であるからです。<br />
<br />
何が多彩かって、驚いたことに今までわけられたどんな門にも入らない生き物が存在するのです。これは大変なことです。だってカンブリア紀の生き物が出てくるまでは、新しい門を作る必要がないくらい、生き物は理路整然とわけることができたんですから。<br />
<br />
またこの偏見から、グールドはさらに面白い見地でものを見ています。それは『原始的』という考え方、それに伴った『弱いもの』という考え方です。<br />
カンブリア紀の特殊である原因の一つは、それがばっと爆発したように多彩な生き物を生んだあと、滅びるときもあっというまに滅びてしまい、繁栄する期間が明らかに少なかったことです。<br />
この説明としていわれているのが、『自然淘汰』、ダーウィンのアレです。自然淘汰というのは自然が生き物を操作する、というものです。つまり、キリンの首が長くなったのはたまたま首が長くなる遺伝子を持ったキリンがその有利さ(遠くの敵を見れるとか、葉を多く食べれるとか)によって生き残り、種として確定した。<br />
(ちなみに、じゃあ何故進化がどんどん進んでチーターがマッハ3で走らないのかというと、チーターにはほかにも進化させるべきところがあって、例えば子供に与える乳の栄養価だとか、牙のサイズや鋭利さだとか、そういった面も共に進化させているので、そうした極端な進化ばかりが起こらないんだそうです。この極端な進化が起こった例が、クジャクなのではないかと聞いた事があるような無い様な・・・)<br />
<br />
これが自然淘汰の考え方なのですが、これでバージェス頁岩を考えると、つまりなんらかの原因によって大量発生した生き物達は、『原始的』かつ『適応力が無かったため』後世まで殆ど生き残れなかったのだ、ということになります。しかしグールドによると、この極端な自然淘汰には人間中心的な考え方があるのではないか。つまり、人間はそうした自然淘汰の結果生き残り、進化の先端にいることができる『特別な』生き物である、という考え方ですね。<br />
<br />
グールドのエッセイを読んでいるとしばしば一見冷静である科学者が、人間を『動物』として正当に見ることが出来ず過ちを(少なくとも今から見れば)犯している、という話が出てきます。そのたびにグールドはそれは正しくないと解き、謙虚かつ科学的なものの見方をすることを勧めているように思えます。<br />
<br />
バージェス頁岩でも同じで、実際観察してみると、彼らが滅びた必然なんて何一つない。例えばカンブリア紀から残った数少ない種類であるアユシェアイア(現在のカギムシ類)は、当時は決して優れたところが特別にあったわけではない。<br />
この極端な自然淘汰の考え方の欠点は、どうしてもあと出しになるからだというんですね。例えばサーベルタイガーは牙が長すぎて滅びた、といわれていますけど、もしヤツらが長く生き残っていたとすれば、私達は「あああの立派な牙のおかげでここまで繁栄したんだ」と判断するでしょう。<br />
ダーウィン本人もいっているらしいのですが、自然淘汰はあくまで考え方であって、確固たる確信しとして使うものじゃないようなのです。グールドはこれを踏まえ、2,3の仮説を組み合わせた、バージェス頁岩の絶滅について説明しています。<br />
<br />
考えてみればダーウィンの進化論が受け入れられるまで、神様が世界を作ったのだと思ってる人が一杯いたわけですよね。今になってみれば笑えてしまいもしますが、でも今でさえ私達は自分が特別でありたい、『少し違う生き物』でありたいと常に思ってるんじゃないでしょうか?<br />
<br />
グールドのエッセイにのっていた話だと思いますが、ダーウィンがで、『色んな人々が世界はこんなに秩序だっていて美しいのだから、誰かによって想像されたにちがいないと思っていますが、私は全くそうは思いません。神様が寄生バチのような残酷な生き物を作るとは思えないからです』と、いかにもダーウィンらしい率直さでいっていたのを読みました。<br />
確かに世界は秩序だっているように見えるかもしれないけど、それは結果としてそうなっただけで、実際細かいところに目を向けると混沌としてるものなんだよなあ。<br />
<br />
長々かきましたが、一般の人でも読みやすいように細かい用語解説がつき、なんといっても豊かな図版で示されているのでパラパラめくってるだけでも結構楽しいです。<br />
グールドの代表作。これに嵌ったらドーキンスの『盲目の時計職人』もお勧めです。<br />
<br />
あ、ちなみにちょっと前の本なので、少し発見が進んだ部分もあります。ハルキゲニアがそれで、実際は上下逆であったことがあきらかになりました。どっちにしても奇妙キテレツにはちがいないですけど…<br />
<br />アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-18200885851282601312007-08-17T11:50:00.000+09:002012-11-20T15:22:10.770+09:00『火を喰う者たち』デヴィッド・アーモンドアーモンドは不思議な作家で、そんなにアメリカでミリオンとばしてるわけでもないのに作品を出すたびに邦訳がでます。宮崎はやお氏が『肩甲骨は翼のなごり』を推薦したのもあったのかもしれませんが、多分日本で人気があるんでしょうね。最近も、クレイ、だったかな、そんなタイトルのが新しくでてました。喉から手がでるほど欲しかったけど久生十蘭をかってしまったよ私は。<br />
<br />
ジャンル的にはヤングアダルトノベルってやつで、10代の人が読むものらしいです。だから児童文学の賞とかももらってる。でもファンタジーといってもハリポタのような剣と魔法の世界ではなく、どちらかというと普段の生活にふっと入り込んでくる異質なものの物語が多いかな。<br />
<br />
<br />
でこの火を喰う者たち。<br />
<br />
主人公ボビーの住んでいる場所は寂れた海岸沿いの炭鉱の町。彼はある日芸人のマクナルティーの技を目にします。鋭い串を片頬から片頬へと突き通す技、鎖ぬけの技、そして火を吐き出しては吸い込む火喰いの技。マクナルティーはボビーの父のかつての戦友でしたが、戦争のせいですっかり頭がおかしくなってしまっている。しかしマクナルティーはボビーには優しい態度をみせます。<br />
<br />
ボビーは様々な悩みを抱えています。父が時々なかなか止まらないせきをすること、キューバのミサイル、中学校の酷い教師。そうして悩みをかかえて苦しむとき、彼はマクナルティーを思い出します。彼の技を思い出し、自分自身に針を突き立てて、「もし父を召すなら僕を」と祈ります。<br />
<br />
祈りということが、大事な位置をしめています。<br />
田舎町の片隅で、少年が出来ることといったら祈ることだけ。そんな時に現れたマルナルティーは力強く、悲しくてミステリアスで、まるで世界中の罪を飲み込んでしまうかのように、火を吐き出し、吸い込む。この旅芸人が現れたことでボビーの心の中も、また外で起こる出来事もどんどん変化していきます。<br />
祈るってことはガキのころに私もしょっちゅうやったことで、なんら宗教意識もなかったにも関わらず、自分自身が身代わりになって家族や友人、世界を救えるのだと思ってました。実際にそれで世界が救われたことなど絶対なかったのだと思いますが、この小説の中での祈りは、確かに何か巨大な力を持っているように思われます。とくにマクナルティーの、おそらく彼自身意識してもいない偉大な祈りは。<br />
<br />
読んで思ったのは、ソーニャ・ハートネットの小鳥達が見たものと、通じるものがあったということです。ただこちらがハッピーエンドに終わったのは、おそらくボビーの周りの友人や家族の大きさ、ボビー本人の明るい性格と、そしてマクナルティーがいてくれたからなんだな、とぼんやり思いました。<br />
ただ私としてはこちらよりもハートネットのもののほうが暗くて美しい雰囲気も好きだし、まあ、年もとったのかもしれませんが奇跡と称する偶然ももう今更信じることも出来ないし、なんといってもボビーのような性格は私にはもてないこともあり、小鳥たちが見たものの方がスキですかね。<br />
<br />
でもアーモンドの中じゃファンタジー要素が少なめで入りやすいし、なんといっても切なく爽やかな読後感がすがすがしくて、文章も読みやすい。なんだかだいって最後は涙ぼろぼろだったし私…。<br />
これから何か軽いもの読みたいかなあなんて人も是非読んでみてはいかがでしょうか。それでサーカスとかいきたくなるといいと思いますよ私みたく。<br />
<br />アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-16340702285196425702007-08-04T14:03:00.000+09:002012-11-19T23:47:13.990+09:00怪奇探偵小説名作選―5 橘外男『逗子物語』本レビューとか名乗っといて最近まったくかいてないことに気付きました。かきます。<br />
<br />
といっても今回は橘外男。幻想怪奇好きなら絶対知ってるんじゃないかと思われるほど有名な方っぽいのですが私最近まで知りませなんだ。このシリーズはなかなかの品揃えでとりあえず小栗虫太郎買って岡本綺堂とこの人で迷ってたら最近猟奇にハマってることだし、と思ってこちらを購入。<br />
<br />
2部構成になってます。最初は西洋が舞台で、後半は日本が舞台のもの。後半は割りと真っ当な日本怪談。特筆すべきはやっぱり前者かなあと思います。<br />
ドキュメンタリータッチの文体でありながら、書かれているものは狼男や人食いゴリラ等荒唐無稽なものばかり。それに妙に詳しいグロ描写やおなじみの金髪美女が合わさり、まあなんとも胡散臭い。この胡散臭さ、どこかで見たなあと思ったら、往年のホラー映画そっくりじゃないですか。今見ると差別的な描写も凄くいい味だしてて、ああたまらないなあという感じ。<br />
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このたまらなさを表現するのは、ちょっと難しい感じです。でも江戸川乱歩や横溝正史が好きな人なら、あの胡散臭さとちょっとしたアホらしさがどれぐらい魅力的かっていうのがわかってもらえると思います。<span style="background-color: white;">橘外男の場合はそれにくわえて、そこまであからさまな内容でありながら品のある文体のおかげで、読み物としても面白いものになってます。</span><br />
<span style="background-color: white;"><br /></span><br />
<span style="background-color: white;">個人的には女豹博士が一番好きかな。色っぽい女医さんもいいし、真意のほどがぼかされた感じのエンディングも、途中の意味のないグロ描写もいい感じ。</span><br />
あまり怖い作品という印象はないんだけど、後半におさまっている「蒲団」はかなり震えがきました。よくある呪われた物質なんだけど、それが蒲団というのはなかなか斬新だと思ったし正体も不気味だしで夜読むもんじゃねえなと思いました。<br />
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<span style="background-color: white;">基本的に西洋ホラーと同じでスプラッタとトンデモ展開を楽しめる、とっつきにくくてもエンタメの強い作品だと思いました。</span><br />
<br />アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-80749560122292035262007-04-15T10:14:00.000+09:002012-11-19T23:47:14.030+09:00「小鳥たちが見たもの」ソーニャ・ハートネット読んだ後、こんなに胸にきて夜寝れなくなる小説って久しぶりです。<br />
<span style="background-color: white;">主人公・エイドリアンは、精神を病んだ母を持ち、厳格な祖母に育てられています。彼の心にはいつも「誰にも理解されない」「自分は本当に間抜けで、個性もなくて、友達もロクにできないような奴なんだ」という卑屈な不安が漂っています。</span><br />
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<span style="background-color: white;">そんな彼はニュースで、兄弟が誘拐された事件を目にします。両親が涙ながらに犯人に哀願する様子を身ながら、彼の心にはじわじわと不安が広がっていきます。自分はこんなに求められたことがあっただろうかと。</span><br />
これは彼の孤独の物語。これだけみると、不幸な境遇にある少年の孤独、とか思うかもしれませんが、実際のところは彼を取り巻くのは、まあ普通とはいわないまでも、彼を虐待していたり、特別傷つくことをしていたりするわけではありません。<br />
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例えば彼のおばあちゃんは、とても厳格な人ですが、決してエイドリアンを愛していないわけではありません。彼の孤独な心情にもわずかながら気付いていますが、彼女はそれは甘やかしになると思っている。<br />
<span style="background-color: white;">そうして立派に育てようと思っていながら、彼をだきしめてやりたい気持ちも持っているし、自分自身がもう子供を育てるような気力をもっていないということにも。彼女も同じぐらい孤独な人なのです。エイドリアンの母親の夫は育児に関しては全く責任も負わないろくでなしだし、彼女の息子は引きこもり気味で、もう一人の娘はモデルの仕事で忙しくたまに帰ってくると息子といい争いばかりしている。</span><br />
そんな二人を見ながら、彼女はすっかり嫌になってしまい、ひょっとしたら自分はエイドリアンのほうを、実の娘や息子より愛しているんじゃないか、と思う瞬間もあるんです。<br />
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私は彼女の息子、引きこもりのローリーが好きです。彼はある理由からもうなにもかもやめてしまうんです。もう彼は草地を踏んで歩くことも、浜辺の砂の感触を味わうこともない。彼もまた、孤独な人間。その孤独でいることに陰鬱な不安を抱いていながら、もう何もする気力もないし、何かを生み出す環境も彼の回りにはない。<br />
彼もまた、ひそかにエイドリアンを愛しています。彼はうちひしがれて落ち込んでいるエイドリアンを見ながら、どうしようもなく悲しい気持ちになり、その傷つきやすい心情に自分自身を重ねあわせ、彼の茨の未来を思います。<br />
彼がエイドリアンのために、「ガラスは喋るんだ」とか、怪獣の絵をかいてあげたりしているのを見ると、本当に涙が出ます。(個人的にはこんなおじさんがいるだけでエイドリアンは恵まれてるとも思うんだけど…)<br />
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彼らは皆孤独なんだけど、最後までわかりあうことはありません。まあ、それが孤独ってものだからでしょうけど。誰も他人のことを思う余裕なんてないし、他人も自分のことなんかわかろうはずがないし。<br />
エイドリアンはどんどん不安に、孤独になっていき、最後はそれが究極の形となって収束します。孤独の行き着いた先で、孤独の救いの先です。<br />
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<span style="background-color: white;">全く明るいところのない小説ですが、文章がとても美しく、人の心情も細かく書かれていて、読ませます。というか読まずにいられないというか。</span><br />
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個人的な感想が以下。<br />
これを読んで一番に思ったのは、なんで私はこの感覚を忘れていたんだろう、ってことです。エイドリアンと同じような感情は小さい時からずっともっていて、今も持っているのに、こうして活字にされて目の前にあらわされると、自分は自分自身の孤独になんて無神経だったんだ、と思います。<br />
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私も確か小さいときにエイドリアンと同じように、幼稚園でものすごい孤独を味わったことがあったし、その時その気持ちを忘れまいとも思ったのですが、いつのまにか、まるでそこは私でなくなったみたいに、切り落とされていました。ひどいことだと思います。自分の過去をゴミみたいに捨てることは。<br />
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実際私がこの小説に感化されるということは、その過去を今までずっと握ってたということなんでしょうけど、それを忘れてしまったみたいにみせてるのは、本当にサギ以外の何者でもない。自分が嫌いになりました。<br />
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ええっと、とにかく、「自分は誰にも必要とされてないんじゃないか」とか、「自分ってつまんないから友達とか出来ないんだよなあ」とか「自分やめてえ」とか一度ならず考えた、もしくは考えている人なら、絶対心にしみるでしょう。逆にまったく経験がない人ならちょっとイカれた小説に見えるかもしんない。でも、いいですよ。最近で一番よかった小説でした。アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1063182319310693031.post-72313499401421984612007-03-20T10:46:00.000+09:002012-11-20T15:22:51.193+09:00「さくらんぼの性は」ジャネット・ウィンターソンこの人はこの作品より、「オレンジだけが果物じゃない」のほうが有名かもしれません。<br />
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あらすじを説明しにくい作品です。主人公は象をも投げ上げる大女、ドッグ・ウーマンとその拾い子、ジョーダン。本に書いてあるあらすじを見ると、まるで冒険小説みたいですが、そういうものとは全然違います。<br />
舞台は中世で、実際の歴史人物や、歴史自体も多数出てきます。<br />
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語りはジョーダンと犬女が交互に語る一人称形式です。ジョーダンは宮廷おかかえの庭師と共に旅から旅を繰り返す、放浪の日々を送る根っからの旅人。彼は旅の途中で様々なものにあいます。例えば、人の口から出た言葉があたりかまわずただようので、それを掃除する人間がいる街。様々な理由で結婚した王子を失った12人の王女たち。旅の目的は、人目で恋に落ちた「幻の女」をさがすこと、とでもいえばいいのでしょうか。<br />
もう一つの話、犬女の話は、彼女がまあおたずねものになりながら、ムカっぱらの立つうだつの上がらない男をかたっぱしからぶっとばす、といった感じです。<br />
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このいい加減な説明でもわかる通り、あらすじは正直胸が躍ったりするものではありません。ただ、このジョーダンのであったものたちや、心の台詞がとてもいいんです。彼は旅の行く末に、心の旅というものに気付きます。どこまでも広がっていく心の地図。地図など何の意味もないこと、人は何処にでもいけるのだということ。そういうことに気付いたとき、彼の幻の恋人を探す旅は終わるのです。<br />
彼だけが母の孤独に気付ける唯一の人間で、また彼も孤独です。でも一人であることになんらの迷いも寂しさもなく、静かに心の中で言葉を抱き、いろいろなものを見つめることができる人だと思います。<br />
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犬女は、自分の醜さや強さ、そして寂しさをずっともっている人です。でもそれらとの付き合いがあまりに長いから、外に見せたり自分で思い返して事故憐憫に浸ることもない人。とにかく無茶なぐらいに自分の正義を絶対的に信じていて、それを通すためなら人殺しなど屁とも思わない。しかし数少ない愛するものたちにはその身体と同じようにおおきな愛で答える人。とても魅力的な人物です。<br />
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この話には実はもう一つ、驚くようなオチがあります。別のまったく別の話と交じり合うのですが、そこにきて始めて、ジョーダンの心で旅をすること、時間も「自分」ということすらもまったく意味を持たないことが、すんなりと飲み込め、本をとじるときに世界がまるで、あの真ん丸い地球の形ではなく、不定形の、つかみどころのない液体のようなものだと思えました。<br />
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「時空を旅する」というのをSF的な意味ではなく、味あわせてくれる小説です。蛇足ですが翻訳もとてもうまく、流れるような文章は声に出して読むことをお勧めします。アラ煮http://www.blogger.com/profile/01077159716192979217noreply@blogger.com0