ナジャ / アンドレ・ブルトン

「君は、私に耳を傾けるすべての人にとって、本質などではなく、ひとりの女であるはずだ。君は、いまもキマイラのような幻獣だと思わせてしまう何かが君のなかにどれだけあったとしても、ひとりの女以外のなにものでもない。君は、することなすことすべてみごとにやってのけるし、君の輝かしい理性は、私には没理性ととなりあうものには見えないのに、命をあやうくする雷のように閃いて落ちる。(中略)君は、悪というものをひとづてにしか知らない。君は、もちろん、理想的に美しい。君は、全てが黎明へとつれもどす存在、だからこそ、私はもう二度と君に会えないかもしれない………。」(p185)
「美は痙攣的なものだろう、それ以外にはないだろう(p191)」


お久しぶりです。
お久しぶりな上に、読んだのいつだよってぐらい前から読んでいる本について今更。シュルレアリスムの帝王、アンドレ・ブルトンの小説、「ナジャ」です。

まず最初に屁理屈から。
アンドレ・ブルトンという人は、小説というジャンルそのものを余り評価していません、というか嫌いな人です。

『彼らは自分ではあらまし見通しているつもりの実在の人物ひとりから、物語中の人物ふたりをでっちあげたり、実在の人物ふたりから、やはり遠慮なく物語中の人物ひとりをでっちあげたりする、それでこちらはわざわざ詮索の労をとらされてしまう!(中略)私はどこまでも実名を欲求する。どこまでも、扉のように開いたままの、鍵をさがさないですむ書物にしか興味を持たない』p19

そしてこの哲学にのっとったまま、どうやって彼自身が小説というものをかくのか、その答えがこのナジャなのだと思いますが…まさにこの書物は、開いたままの書物、ガラスの家に住んでいるブルトンを見通すことが出来るという、世にもまれなる書物なのです。
私はこの小説を何度も読み返していますが、これほど不思議な書物っていうのは世界にどれぐらいあるんだろうと思います。それぐらい、ちょっとジャンル分けやこれがどんな本なのかという説明が難しい、そんなものなのです。

内容の説明を軽くします。この小説の主人公の私、つまりブルトンはパリの街をさまよっていたときに偶然「いまだかつて見たことがない目」をもった女と出会います。
独特のポエジーと、予言ともいえるような不思議な力を持ったこの女、ナジャとブルトンの、神秘的ともいえる精神の交流、偶然の力の不可思議さを描いている…というのがあくまで軸でしょうか。
ですが、上で言ったようにこれは普通の小説ではありません。それは「私」が作家本人であるという、私小説的な軽い意味ではない。極端に言えばこれは小説の体をなしてないのです。
この上であげたあらすじに沿っている物語展開ではけっしてありません。小説といっても、ドキュメントみたいな所が沢山ありますし。

そもそもこの小説のはじまり方は、「私は誰か?」なのです。
他の誰でもない、ブルトンはまさに「私は誰か?」ということを求めるためにこれを書いている。
そして上であげた筋にしても、ナジャに出会うという話になるまで、ブルトンは自分自身のことを書き続けるのです。自分が何に心を動かされるのか。「たこの抱擁」という妙なB級映画、デスノスとの催眠術の実験、薄汚い現代劇場、グラン・ギニョルの舞台の筋、のみの市で見つけた奇妙な物体、ランボーの魔力。
上のあらすじを読んだだけだと、ナジャとブルトンの二人の恋愛劇、みたいなものを想像するかもしれませんが、あくまでそれは一部で、これはまさに美しいもの、奇妙なもののより集め、まさにシュルレアリスムの玉手箱といってもいい小説なのです。

二人の神秘的な交流は、ナジャが精神病院に入れられるという結末で唐突にバッドエンドを迎えてしまう。そこにきて、ブルトンは今度は唐突に現代の精神医療というものを批判し始める。理屈っぽく、論理的に展開されているように見えるその文章はしかし、結局はナジャにはもっと救われる道があったはずだという、ひとりの人間を救いたかった男のひきつった叫びにすぎないように私には見えます。
「あなたなのか、ナジャ?(・・・)これは、私自身なのか?」という悲痛な叫びが胸を打ちます。

ここまできて、話は急展開を迎えます。
ページは代わり、ブルトンはここまで書いてきた文章、自分が嫌がっていた小説という体裁でもって作り上げた文章に対する後悔、「私は誰か?」という問いに対する答えになったのか、むしろ印刷された文章が自分の人生というものを裏切っているのではないかという後悔、のようなものを語り始めます。
そうして最後には、今まででてもこなかった、中身にも説明がない「君」という存在への声かけがはじまります。それはどこから見ても恋文で、その文章は涙がでるほど美しい。まるで、ナジャを失ったこと、自分を裏切らず小説を書くという行為といった様々な苦悩の底から、「君」という存在がブルトンを照らす光として浮かび上がってきたかのようです。
その「君」への愛、その美しさへの賛美のあとに続くのは、美への定義、動的でも静的でもない美、「リヨン駅でたえず身をはずませている汽車のような」美、そして、あの有名な、シュルレアリスムの中でもっとも知られた、もっとも美しい「痙攣的な美」という言葉が現れ、物語は終わります。

この小説をどう説明したらいいのか…。
これはアンドレ・ブルトンという人の物語なのです。
まるで他の人など眼中にないかのように、自分自身を描いた物語。
「君」が誰かという説明もなければ、ナジャのその後の運命の話すらもない。
極端にいえば「便所のラクガキ」といっても過言じゃないんじゃないかとすら思います。
しかし、それが何故ここまで胸を打つのか、私には説明がつきません…。
ひとりの人間が、思考し、さまよい、出会い、愛し、失っていき…それをここまで正直に書くことが出来る、怒りも、悲しみも、愛情もむき出しにすることが出来る、そのことに対する驚嘆と憧れかもしれません。
心が傾いたという事実を忘れないこと、出会った人々の印象も留めること、通りの名、その彫像がだれのものなのか、何というホテルなのか、そんな他愛ないことすらも、一つの出会いとして記録していくこと。
これは、誠実な小説です。おそらく世界で最も読者に誠実な小説なのです。

この誠実さの結果、この小説を読むと奇妙な感覚にとらわれます。
著者が同じ時代に生きているのではないかという感覚です。
本というのは、時代がたったら全く別な意味をもったりするものですが…。
これはどうなんだろう?
勿論、シュルレアリスムというものが革命として存在する時代ではなくなったけれど、それでもこの小説の中に生きている「アンドレ・ブルトン」という人その人、肩書きやらなにやらを除いてこの小説の中のブルトンというものは、いつの時代にも普遍に感じられる人格なんじゃないだろうかって、思ったりします。
そういう意味では、これはブルトンという人をまさにガラスの家に閉じ込めそのまま保存した小説であって、またそこにかかわってきたナジャという人もそうで…あんな悲しい結末になっても、ナジャという人間はいつまでたっても忘れられない、この物語の中で生き続ける人になったんじゃないか。
そう思います。

ブルトンのいう「痙攣的な美」をまさに体現したかのような美しい作品。
完璧さからはほど遠く、時に冗長にも感じられる部分もありますが、
「完璧さだけが美しいのではない」とまさに実感できる、大変魅力的な
ものだと思います。
シュルレアリスム文学に手を出したい人にはまず一番におすすめ。
ただ、私の中でムリにジャンル付けするとしたらこれは「恋愛小説」です。
シュルレアリスム文学という枠からは様々な部分にはみ出す作品だと思います。
好みは別れれど、奇妙な読み口ということだけは保障します。
読書しすぎて飽きてきた、読書EDの人への治療薬としてもオススメ。

なお、岩波版には巌谷國士氏の大変細かい解説と註がついています。
素晴らしいし、読んだあとに読むと色々と考えさせられるのですが、
小説の印象を固めてしまい、折角の奇妙な読み口を薄めてしまうのも確か。
なので最初はわからないところは読み飛ばしつつ、註は原注のみで読むのがおすすめです。

しっかし、ブルトンという人間が男にも女にもモテたのはわかりますね。
こんだけ己の信念にガンコな人ってなかなかいないよなあ。
独裁的とか、様々な欠点もいわれるけど、自由と愛という、わかりやすいけれど難しいものを信じて、自分なりに実践しようとしてきた人として、本当にスゴい人だと思い直しますわ。
人間としての欠点も多かった人だと思うけど、それがむき出しだから凄く愛着が湧くんだよね。
シュルレアリスムの奥の深さはまさにこのブルトンという人の奥の深さだとつくづく思います。