読んで!半七&半七捕物帳 巻の四 / 岡本綺堂

岡本綺堂の怪談が読みたい、と思っていたのですが、どの選集も入っているのは
半七ばかり…正直捕物帳に興味はないし…と思いスルーしていたのですが、時代劇にはまるに及んで、読んでみようかと買った『読んで!半七』で、うっかりドン嵌りしてしまい、図書館でちくまのハードカバー(何故か4巻からしかなかった)を借りて読みました。
お、おもしれえ…というか岡本綺堂はすごいです 。

半七捕物帳は、「私」が昔江戸で岡引として活躍した半七老人に話を聞く形で進みます。つまり、もう時代設定は江戸ではなくなっているわけです。そこが面白くて、例えば今○○になっているところは当時は××で、そこの角には絵馬屋があって…云々という描かれ方がされているわけです。つまり、少なくともこれが書かれた当時の人は、岡本綺堂の語り口を通して、江戸の生活を体感できたんです。
このかき方が本当に尋常じゃなくて、何年に起きた事件だとか、昔は絵馬がブームになった時があってとか、まるで見てきたように書く細やかさがほんとにすごいです。
多分、これは江戸っ子じゃないと絶対表現できないものだと思います。同じ時代に生きていても江戸っ子じゃなけりゃ絶対無理でしょうね。

半七捕物帳はオカルティックな要素も多く含まれています。例えば、清水山という<怪異が起こるとされた小さな岡のような所に、白地の浴衣をきて手ぬぐいをかぶった女がいて、振り返ると女の顔は青い鬼だった( 柳原堤の女)とか、殺生禁断の川の鯉をとったら、濡れた女が現れ、鯉を取り返していった(むらさき鯉)とか。
ただ、当然捕物帳なのでこれにはタネや仕掛けががあって、大概解決するのですが、これが江戸モノというか、時代物ならではのおおらかなところで、決して解決しない謎が1,2個は残る。それは昔はそんなに正確な所までわからないし、実際まだ妖怪や幽霊の類といったものが存在した時代だったから、それ以上追及しないわけですな。こうした描き方そのものが、江戸の時代の空気をかききっているかのようで、読みながら軽くタイムスリップしたような気持になりました。

結構えげつない話や、エロティックな話も多くて捕物帳といっても非常に変り種です。「大阪屋花鳥」では、獄中で女が女の夜伽をさせて、むごたらしい目にあわせるところなんて直接的な描写がないにも関わらず、クラクラきましたよ(笑)。

今回読んだ中で一番すきなのは『柳原堤の女』かな。半七は結構じらしておいてオチがわかったらなあんだ、ってことも多いのですが、これはミステリアスなものがミステリアスな展開を迎え、結局最後まで謎がわからないまま終わるという、最後まで幻想的な作品でした。岡本綺堂や泉鏡花の描く女は、どうも実体がなさそうな妖しさで実にいいです。ほんとに日本画の幽霊が出てきたようなイメージで…。

あと、悪い奴はなんといっても「十五夜御用心」です。物凄い女が出ますよ。これ、殺す奴は物凄いペースで殺すよな。この辺、まだ日本人本来の荒い気性が残ってた江戸っ子らしさでもあるんでしょうね。

量もものすごいので全部読むかはわからないんですが、あの手、この手で、よくこんなの
思いつくなあというネタで楽しませてくれます。何個か読んでると段々こういうつながりかな、というのがわかってくるのですが、生々しい人間模様や、江戸の空気を楽しめる物語なので飽きがきません。ちくまのハードカバーの奴(いくつかでてるのかしりませんが)には、地図もついていて興味深いです。
江戸っ子ならなおさらお勧めいたします。

「ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅」 ヴァルター・ベンヤミン

…もっと近代風の言い方をすれば、人間は自分自身を裏切るのだ。夢見るナイーヴさの保護からは抜け出していて、そして自分のさまざまな夢に、余裕を持たないまま触れることによって、我が身をさらし者にしてしまう。というのも、余裕を持って追想しながら、夢について語ることが許されるのは、ただ向こう岸から、すなわち白昼からだけなのだ。こうした夢の彼岸には、ある種の清めにおいてのみ、達することが出来る。身体を洗うことに類似しているが、しかしそれとは全く異なるこの清めは、胃を通って行われる。朝食前の空腹のものは、あたかも眠りの中から語るように、夢を語る。―――p21


まずは半七から、と思ったのですが、ベンヤミンの方が買ったのは早かったとわかったのでこっちから…。

ベンヤミンの著作はとても好きで、2,3冊ぐらい家にあるんですが大抵の場合理解して読めません…彼の歴史学者や哲学者としての顔は私にはちょっと難しすぎてさっぱり理解できませんので…。
やっぱ昔の哲学者の作品とかも読んでないと理解できないよなあ、こういうの。
それでもベンヤミンを愛読しているのは、他でもなくかれの文筆家としての部分が非常に好きだからです。
彼の文章はなんというか、非常に美しい。しかもその美しさは、装飾的な美しさや演出的な美しさではなく、本来なら心に去来したり、目の前にあったとしても余りに特筆するのに価しないように思えることなので見逃してしまうような、そういう一瞬の心や事象のひらめきを、あたかも彼自身の眼のレンズによって撮影された映画を見せるように、読者の前に晒して見せることです。
彼の感性はこんなにも色んな知識を蓄えた人とは思えないぐらいみずみずしくて、子供がなんの変哲もない物や人の前で立ち止まってじいっと見つめているかのように何か普通の人には見えないものをみている、そしてそれを物凄く慎重にかいている、そういう印象を受けます。

そういう子供っぽい感性と同時に、ユダヤ人らしいウィットにとんだ表現も持ち合わせていて、例えば本書の本と娼婦を重ね合わせた文章(本と娼婦は、ベッドに引っ張りこめる、本と娼婦は時を交差させる。あたかも夜を昼のように、昼を夜のようにする…など)なんかは、まるで落語のようで非常に面白い。

ベンヤミンの本は沢山出ていますが、これはタイトルからもわかるように、あくまで散文のように、そのベンヤミンのまだ批評に達していない心のひらめきをまとめているものです。
心の迷路を町にたとえて、読者が彼の眼と共にさまよっていく「一方通行路」、モスクワやナポリなどを寓話的・歴史的表現で語る「町の肖像」、過去のドイツの偉人の手紙を通してドイツ人というものを考察していく「ドイツの人びと」など、どれも彼の鋭い観察眼と感性がほとばしらんばかりの非常に濃度の濃い本です。

なんでしょうねえ、この感性は…並の人だと絶対失ってしまうか、変質してしまう類のものなのに、それを年をとって得た知識や表現力によって非常に高度のものまで昇華させている。文章の美しさは小説のようで、意味がいまいちつかめない私のような脳味噌の持ち主でもなんだか読んでしまうんですよね。

また、彼はユダヤ人というのもあるのですが、ドイツにありながら外からドイツ人を眺める、ということもできる人で、ドイツ人がヨーロッパ人に、彼らと付き合っているとホッテントットとつきあっている気がする、といわれるのは何故なのか、といったようなことも、冷静に見つめていて、こういうのも面白いです
(というか、そうなんか…ドイツ人他のヨーロッパ人ともちがうんか…)。

上に上げた引用は、この本の中でも大好きな文章。

全文は長いので引用できませんが民間の言い伝えに夢を朝食前に語ってはいけないというものがある、という話から始まり、それは朝食を食べることによって、体の奥にとどまっている夢を洗い流すのだ、といった文章は非常に美しく、また食事というものを一種の夢をおとす儀式として考えられている発想に読みながら眼からうろこが落ちたんでありました。

からくり時計の細かな動きや子供の態度、切手の役割にいたるまで、観察と豊かな想像力によって膨らまされた記憶はもはや個人のものを超えて、私達が共有できるものになる。こうした何でもないことをどこまでもどこまでも見つめ、考えるということは、ベンヤミンのような豊かな感性を持ってない人間でも、発想するヒントになるんではないかなあ、とも思います。
精緻な文章は読みながら疲れるので難易度は高いですが、是非どうぞ。

「虎よ、虎よ!」 アルフレッド・ベスター

「あなた方は皆奇形なのです。しかしいつでも奇形だったのです。人生は奇形です。
だからこそ、それがその希望であり栄光なのです」――p422


ご無沙汰です、って毎回これだな!下の記事見たら、読みにくくてびっくりしました。改行せねば…
ちょっと印象に残ったセリフをのせてみることにしました。引用なら許される・・・はず。


今回はベスターの「虎よ、虎よ!」です。
個人的に非常に思い入れあるSFです。長編SFはあまり読まないのですが、その読まない中だとレムの「ソラリス」と同じぐらい大好きな作品。初めて読んだのは結構昔ですが、図書館で借りて文庫本に顔をくっつけんばかりにして読みました。しかしもう廃盤になっていて買えませんでした。
今はちゃんと復刊していて、久しぶりに読みたいと思ったので購入。

物語の背景は、ジョウントと呼ばれる精神感応能力が当たり前のように使えるようになった未来です。
ジョウントの発達のために犯罪は増加し、内惑星と外惑星の経済的バランスが崩れてあちこちで戦争状態となった、世紀末的な暗い世界を背景に話が始まります。


物語はある宇宙船から始まります。敵から襲撃を受け、破壊された宇宙船の中に取り残された一人の男。彼は極限の状況下の中、生きるか死ぬかぎりぎりの賭けを続けながら生存している。粗野で頭の働きは鈍いが、非常に剛健な男、彼はただ仕事をし、友人は少なく、特に人にも愛されないなんの変哲もない男だった。ただこの状況におかれるまでは。


そうして生きながらえている中、一筋の希望の光が見える。他の宇宙船が視界に現れたのだ。彼は躍り上がり、必死に閃光信号を送る。しかし、その宇宙船は彼を無視して、通り過ぎていってしまう。そのとき、彼は平凡な男であることをやめた。
「貴様は俺を見捨てたな、仇を取ってやるぞ、滅ぼしてやる。殺してやるぞ」
宇宙船への復讐に取り付かれたこの男、ガリー・フォイルが、この物語の主人公である…。

正直、こんなにレビューするのが難しい小説もあんまりないと思います。
ガリー・フォイルの復讐譚として始まるんですが、色んな要素が判明していくにつれて、フォイル自身もどんどん変化していき、物語の目的も当初の復讐から外れたものになっていく。最初読んだときも、復讐の物語をベースにした冒険ものだな、なかなか重くていい、と読み進めていっていたんですが、どんどんどんどん離れていってしまうんですよ。
兎に角、色んなアイデアが詰め込まれていて、ごった煮状態。エンターテイメントのような、SFでしかできない哲学的な物語なような、ロマンスもあるし、なんというか、ほんとごたごた。

それでも、軸がぶれているように思えないのは、やはり主人公の存在。
最初はどうしようもなく動物的だったフォイルですが、様々な経験を経て、知的な部分を備えた人間に生まれ変わります(ちょっと寂しいんですけどね、コレ)。
しかしやはりベースにあるのは復讐。彼が狂気につかれたように、復讐相手を求め続けるところだけは、どうやっても変わらない。
実は間間にロマンス的な部分もあり、読みながら、女のせいで優しい人柄になったりしたらやだなあと思ってたんですが、そんな心配は全然ありませんでした。彼は何よりも復讐。生活くささの微塵もありません。(てか、全体的にこれに出てくる女、問題多すぎてそこもグッドです。まあフォイルがあまりにもあまりな人格なせいもあるんだけど)
この、変化しつつも根底の部分は変わらない主人公の存在こそが、ごった煮のストーリーを支えていると思います。虎のような刺青をした、マッチョで暗い主人公ってほんとたまりませんよ。

なんといっても勢いが凄い。正直ちょっとトントン拍子に行き過ぎるんじゃとか、こんな主人公強くていいのかとか、疑問を抱くところもあるんですけど、そんな疑問をも無視して進んでいく、がむしゃらなフォイルの後姿についていくのに読者は必死になります。

そして、思いもしなかった展開を見せるラストにいたるときには、もう途中で読むのをやめることはできません。
復讐を求め続けてフォイルがたどり着いた所。もし最初を読んで、それからラストに飛べば、どう考えても納得いかないラストです。しかし最後までフォイルの背中を見ていると、彼が行き着く場所はここ以外にはなかったのかもしれない、と、すっと入ってきてしまう。
この430ページ前後の作品の中で、フォイルは何度も死に、生き返り、それを私はずっと見てきていた。
あの男が、あんなふうに宇宙船の中で呪詛を吐いていた男が、ここにたどり着いてきたことに、驚きを覚えると同時に、一種の安心感も覚えました。

そしてそこに来て、「もうフォイルの物語を読むことは出来ないんだ」と、キャラクターが素晴らしい小説を読むたびにかんじる、一抹の寂しさと、面白い小説を一気に読了した後のドキドキが暫く胸を離れませんでした。

正直、あまり文章がうまい作家さんではないでしょうし、今見ると古いところも少しある。それでもそんなのは些細なこと。どんな力技でも許されてしまうのです、ガリー・フォイルが主人公である限りは。

兎に角、私にとっては非常に特別な小説です。
読者を選ぶかもしれませんが、主人公に読者が振り回される快感を、是非味わって欲しいです。
あと、「サイボーグ009」をみた人なら、いかにこの作品が影響を与えているかに驚くかも。いくらなんでも、モロにパクりすぎだよ、奥歯の加速装置とか(笑)。