「群雲、関が原へ」岳 宏一郎

お久しぶりです。本自体は結構なペースで読んでましたよ。


最近、戦国時代にハマっています。元々好きではあったんですが、最近良質の戦国小説にめぐり合い、ああこんなに面白いものなんだー、と深くのめりこみました。
一時期に比べてだいぶ研究も進んでいて、所謂「そのとき歴史が動いた」的解釈はもはや通じなくなっていますし、何かを悪、善と決め付けて批判する人も減ってきているのではないでしょうか。

その戦国研究や、戦国時代への見方への新たな入り口をはっきりしめしているのが、岳 宏一郎の「群雲、関が原へ」だと思います。この人これがデビュー作なんですよね、凄すぎる。

関が原はよく取り上げられるテーマですが、この作品は視点が非常に面白いです。
普通関が原というと東軍と西軍、家康と三成という二人を中心に展開しがちです。この小説でもこの二人は勿論、大きな中心ですが、とてもよくできているのは、関が原の戦いというものが決してこの二人の対立という単純な構造で語られていないことです。

今でもたまに、戦国時代の武将を語るに当たってあいつは裏切ったから汚い奴だ、という感じでけなす人が結構います。また、近代以降に成立した武士道を戦国時代にもちこんで精神論を語る人もいたりしますが、戦国時代というのはまったくそういう清廉な精神からは遠いものなんですよね。私もまだぺーぺーなので語れる知識はそれほどありませんが、少なくとも裏切る=武士として失格という考えがなかったことは明らかです。むしろ無能な上司は裏切られて当然であって、この時代の忠誠心というのはやはり優れた人に仕えるときにどれぐらい自分の力を示すことが出来るか、という点だったのではないかと思います。
「武士道は死ぬことと見つけたり」で知られる葉隠なんてものがでてきたのは、侍が非戦闘員化してからのことあり、これは少なくとも戦場で戦う人間の心がけではないし、こんなのは国を背負う一大名にはまったく必要のない思想です。

じゃあ戦国時代の武将がどのように生きてきたのか、という点を、膨大な資料(巻末の参考文献が凄いー)をもちいて、また豊かな想像力で描ききったのがこの小説だと思います。
戦国時代の武将は所謂「死にたがり」ではない。むしろ、出世や自分の家が残ることなどの執着は現代人とは比べ物にならないかもしれません。それは見ようによっては未練がましいかもしれませんし、単純な武士道というものとは大きくかけはなれています。
けれども、だからこそ今までの単純なイメージとは異なり、何かを賭けて、乱世の中なんとか生き残ろうとする戦国武将のしたたかさが見えてくる気がします。

この小説は多数の章でなりたっていて、中には非常に地味な者もいますし、そうでなくても関が原という直接対決には殆どかかわりのないように思える人々が多く出てきます。しかしこの小説のキモは、今歴史に深く名を刻んだわけでもない人々が、厳しい乱世を何とか生き残ろうとして、また出来るだけ多くの石を手に入れようとして、それぞれの思惑で、恐らく最良であろうという選択をその結果がどうであれ、確かにやってきたのだと深く感じさせるところにあります。

これが描いているのは、小早川のようなキーファクターだけではなく、小さな人々、大きな人々の思惑がからまりにからまりあって、結果的に最後は東軍の勝利に終わったというその過程です。読みながら凄いと思うのは、こっちはもちろん関が原の結果を知っているんですけど、読んでいてまったくその結末を知っていることのつまらなさがない。それは情勢のゆらぎが東に傾いたり、西に傾いたりを繰り返しており、そのゆらぎの原因が単純でないことゆえの読めなさからくる、なんともいえないスリルが存在しているから。
それぞれの小さなファクターが積み重なっているからこそ、東軍が勝利したという部分を一概に小早川の裏切りや石の違いだけで語ることが出来ない、これがこの小説の関が原だと思います。

凄く感心するのが、これだけ資料をそろえ研究し尽くされたものなのに、小説のキモであるところの、登場キャラクターの造詣に並々ならぬ魅力を感じるところです。
例えば司馬遼の関が原は面白いけれども、キャラクターが非常に単純に描かれている気がします。わかりやすいというか、いわばマンガのキャラのように読みながらサクサク入っていける、そんな描かれ方です。
でもこれは全然違って、逆に複雑で奇妙なキャラクターが多く登場する。しかしながら、彼らには彼らで思うところがあったり、過去の経験がありきで行動しているので、それにまったく反発を感じないんですよ。しかも歴史小説によくある身びいきというものがまるでなく、できるだけ平等にかこうとしていて、それが非常にキャラクターを親しみやすく魅力的にみせていて素晴らしいです(それでも、上杉景勝と黒田如水は大好きなんだろうなあと思いはしますが)。

いわゆる「コイツはアホだから」「コイツは不忠者だから」こういう風に行動した、という単純化がない。逆に「義が厚いから」という理由で行動する人間もいない。(石田三成はやはり理想家にかかれていますが、それはそうだろうなあと思う…)
皆非常に損得はかりにかけて行動している。例えば大谷刑部は、ハンセン病にかかっており、最後には目も見えず足もきかず、それでも采をふるって最後まで西軍で戦い続けた人で、私も大好きなんですが、この人はよく義将の代名詞として描かれます。
しかしこの小説では最初は家康方につこうと考えている、現実主義な人間としてかかれています。なりゆきで西軍につくことになり、そうしたあとからも、三成に対する義というよりは「自身が美しく散るため」(何せ彼は不治の病ですから)という彼の目的のために、戦うんですね。そのちりぎわはやはり見事ですが、今までの義の将とは違ったイメージで、一種の悲惨さが漂っています。こうした個人の目的がそれぞれ異なっているというのが、最後までこの長編をあきさせない理由だと思います。いや、ホント素晴らしいですよこのキャラ造詣。好きにならずにいられないんですもん、皆。

西軍の勇将、島左近の首が上がらなかったことについて、「馬などにふみつけられ肉塊と化したのであろう」的描写も感動しました。そこにあるのはかっこいい死や美しい死ではなく、まさしく生々しい死であり、人間の生死なんですよね。
戦国時代の大名も生きていた、決して雲の上の人ではないし、また100%軽蔑されるべき人間なんてものは存在もしないのだということを、読んだあとしみじみ感じさせてくれます。義だ情だ、武士の魂だ、というイメージにうんざりした人は是非どうぞ。

正直戦国時代モノじゃ屈指の面白さじゃないですかねえ。とりわけ色んな大名に対する知識がある人ほど、興味深く読めると思うのでオリジナル要素が多めに入った、例えば「真田太平記」なんかが苦手だった人も面白く読めると思います。

あ、あと来年の大河。正直原作はほんとウンコなので、あわせてこっちも読めば景勝がカッコいいんでヘンな意識を植え付けられなくて済む気がします。
景勝好きとしてはあれほんと許せないんですけど。とばっちりで直江嫌いになった…なんてネガティブキャンペーンだ…

「ずっとお城で暮らしてる」シャーリィ・ジャクスン

久々に紹介するのは「魔女」とも呼ばれるかなりの怪人作家、シャーリィ・ジャクスンの「ずっとお城で暮らしてる」です。

主人公はメリキャットという少女。コンスタンスという姉、少々認知症ぎみのジュリアンおじさんと一緒に暮らしています。他の家族は、晩餐のときにブラックベリーにかけられた砒素が原因で死んでしまい、そのために村人たちに疎まれておりちょうどその時料理をしていたコンスタンスにいたっては外に出ることすら出来ません。そんな彼女達のもとに、従兄弟となのる男が訪れてきて、少々ネジがはずれながらも平和な生活はかきみだされていくことになる…というのがあらすじ。

なんといってもこの作品の凄いところは感情移入できるキャラが一人も登場しないことです。これはけなしている訳でもなんでもなく、この作品の途方もない魅力だと思います。よく感情移入できるキャラが大事などといいますが、ホラーという分野においてこれは必ずしも当てはまらないと思います。人々が恐怖を感じるものっていうのは逸脱であり、個人にその判断の差があるために逸脱を描くことはとっても難しいことでもあるのですが、とにかく「何かが違う」「何かがおかしい」という感覚の薄気味悪さ、不愉快さはかなりのものです。

大体において、この逸脱した理解できないキャラクターは感情移入できるキャラクターと一緒に投入されるのが常ですが、この作品にはそんな気の利いたキャラなんて一人もいません。ありていにいうと皆キ○ガイばっか。キ○ガイ博覧会です。

例えば一緒に住んでいるおじさんですが、家族が死んでしまった事件のことをとてもはっきり覚えており、あろうことかこれを生涯かけて小説にしようなんて考えてます。常にそのことしか考えていない。しかもボケかけているのがこれまた怖い。「砒素のことをどう思うかね」とかいう人と普通の神経をもってる人なら朝飯食いたくないですよ。

主人公のメリキャットにしても大概で、外界から入ってくるものに対する憎しみの向け方たるやハンパじゃありません。呪いめいた行動にでることもあり、本当に恐ろしい子供です。よくホラーででてくる大人びてるくせに妙に無邪気で恐ろしいガキがいますが、あんな感じです。子供嫌いに拍車がかかる恐ろしさです。

ですが、この狂気は屋敷におしこめられ、内包されているものであって、表向きは非常に穏やかで、美しい品位のようなものを感じさせます。キ○ガイ博覧会とかいっといてなんですが、この三人の生活を眺めるとき、外界の残酷さから逃れたこの小さな世界は、歯車が狂っていながらもとても平和で美しいものであると感じます。そしてふと気づくんです。私はメリキャットやコンスタンスやジュリアンおじさんに嫌悪を覚える資格があるのか?と。私は彼らを忌み嫌っている無知で品のない村人たちと同様なのではないか?そして私がメリキャットやコンスタンスのようにならないという証拠はどこにあるんだ?と。

メリキャットの狂気は一つの勇気ではないのか。外界の穢れたものを見下ろす、神聖な高潔さの表れとして狂気があるのではないのか。彼女達の狂気に不快感を感じている自分こそがまさしく彼女達を狂気におとしいれたあの村人たちと、同等の低俗さをもっているのではないのか。

この小説の不思議さ、奇妙さをよりいっそうかきたてているのが、その読後感です。あたかも狂気も残酷さも失われたかのような、優しい読後感。それと同時に読み終わった人の心に、「ああ、メリキャットとコンスタンスはまだ生きている」という、不気味で恐ろしい実感をも感じさせます。

とにかく言いようのない、ホラーの怪作中の怪作。死んでもよむべきです。戦慄します。ブラックベリーに砒素をまぜちゃだめ!絶対!


「パリのダダ」ミシェル・サヌイエ

ダダイスムはいわばシュルレアリスムの前形態ともいえるもので、革命的な方向性がより強く、基本的な概念は「芸術の破壊」です。
この革命的かつ非常にカッコイイ芸術運動の始まりは意外なことにチューリッヒ。トリスタン・ツァラという小柄な男が、芸術界を揺るがす大きな運動を巻き起こしたのでありました。

本書はダダイスムをパリを中心として捉えた、ダダ・シュルレアリスム研究の古典ともいえる必読書です。
綿密な調査に基づいており、「ダダイスムとはどのように起こったのか」を知る上ではぜひとも読んでおきたい本です。それに批評めいたことはあまりかいていないのでとにかく読みやすい。凄い厚さですがさくっと読んでしまえます。

これを読んでとにかく惚れるのが、トリスタン・ツァラでしょう。後にシュルレアリスムを担うことになるブルトンらは、遠くチューリッヒで起こったダダイスム運動に心躍らせ、ツァラという男をパリに招き、その訪れを心待ちにしていました。
しかしやってきた男はぶかぶかの外套をまとい、七三の髪を額にたらした片メガネの「日本人のような」男。しかもフランス語が致命的にヘタクソで、「ダダという2音節の言葉すらパチパチはねて聞こえ」るというありさまだったので、ブルトンたちは非常にガッカリしたのだとか。しかも笑うと顔面崩壊してキモかったらしい。(でも写真見るとかなりの男前なんですよねえ。ブルトンたちはどんなの想像してたんだろう?ダンディ?)

しかしツァラの行動力、その言葉の持つ攻撃性と、人を煙に巻くユーモアは、パリの芸術界を巻き込んでいきます。今から見ると少々イロモノめいてみえる劇等も非常に効果的で、皆を驚かせ、嫌悪させるのに十分でした。
「ダダは何も意味しない」といいはなつ彼は飄々とした詐欺師そのもので、彼の作り出したダダという言葉は彼の手の中で明滅しながら、様々な人々をひきつけていきました。

んがしかし。ダダイスムはただ彼だけの功績ではありません。どんな運動でも広まらなくては意味がなく、広めるためにはただ適当に劇場のっとりテロをやるだけではなりたたない。ツァラの大きな助けになったのがフランシス・ピカビアです。
大柄で、車の大好きな典型的な金持ちといった風情の彼は、画家でもありましたが金を集める能力にも長けていて、彼が作った雑誌、彼の打った宣伝がかなりダダイスムという活動の支えになったのも確かです。
彼は自分の本音をうまく包んでおくことができる男で、ツァラをそれを品がないほどにむき出しにする男。この二人のバランスが非常にうまくいっていたのだと思います。

後にダダは「死に」ますが、ツァラはむしろダダイスムそのものが死ぬことを予期していたし、死ぬことに意味があるとみなしていたようです。つまりツァラにとってダダイスムは芸術という伝統を破壊していく革命であり、その後に何かをうちたてようとするものではなかったのではないかと。
それに対してブルトンはあらゆるものを壊すというやり方はこのまない人であったのだと思います。この違いが、二人の決裂の原因にもなったと思うのですが、この本は大体ダダイスムの死までで終わっています。

マン・レイの伝記本に私の好きなツァラの写真が載っています。
ちょっとよそゆきっぽいかっこつけた写真で、あの細い鋭い目でこっちを眺めながら微笑んでいる、皮肉っぽいいつもの顔です。これには若きブルトンの写真ものっています。アラゴンと並ぶ若き日のブルトンの横顔。後に畏怖を抱かせるほどの威厳をもつことになる、あの品のある横顔です。
二人の写真を見ながら、二人の違いに心を馳せると、当時のパリを包んでいた芸術革命の熱気が伝わってくるようにも思えるのでした。

「ナイフ投げ師」スティーブン・ミルハウザー

ミルハウザーの「ナイフ投げ師」。これ、凄く評価が高いみたいで色んな所で紹介されています。
翻訳者も柴田さん。この人の本ならまず間違いない、という翻訳者さんです。

短編集なのですが、かなり変り種です。どこがかわっているかというと、設定そのものもそうですが、それを自然と容認している空気がとても不思議です。
どんなことかというと、古い友達が結婚したと聞いていってみると、相手はデカいカエルだった、という話があります。普通だったらこの出来事そのものが驚くべきことで、それだけで友達を問い詰めたり、その場から逃げたくなったりすると思うのですが、主人公は割とあっさりコレを受け止めてしまうんですね。
そして友達の変わり者ぶりに呆れながらも、カエルとの情事を想像して不思議な気持ちになったり、彼女の美しさを発見したりして、最後は一人寂しくまた帰って行きます。昔の友の変化を見たときの哀愁と、ちょっと気の抜けたユーモアがあって面白い話です。

他にも、遊園地の開発にこだわるあまり、とんでもない次元まで改造し尽くしてしまう話(個人的にはコレが一番面白かったです)もあり、この遊園地そのものもかなり突拍子もないもの(遊園地に裏街が存在し、娼婦がいたりする)なのですが、これもまた、淡々と語られています。
変人、変なものをあっさり容認してしまうこの懐の広さが、全編を貫いていて、少々恐ろしい話でもあるにも関わらず、どこか間が抜けて映ります。

それと色んな批評家や柴田さんが強調しているように、語りの凄さが素晴らしい。精密な描写が延々と続きます。それ故に、少々純文学を読んでるような気持ちになってしまって、続けて読むとちょっと飽きちゃいました。少しずつ読んでいく方が体力が持っていいかも。読むのに体力が要る本です。

少々変わった設定と、著者の語りの凄さがあいまって、なんとも濃い~作品です。読後感が妙な小説が読みたければ是非どうぞ。ただ感情を揺さぶられるとか、そういう感じの作品ではないです。

関係ありませんがこの間NHKの週間ブックレビューみてたら、コレとジャネット・ウィンターソン、それともう一つ海外文学(タイトル忘れました…あれも気になってるんだけど読んでないなー)を勧めてて、ああ、海外文学ファンのツボはどれも同じだなあとしみじみしました(笑)

「死ぬときはひとりぼっち」レイ・ブラッドベリ

さて今回はブラッドベリです。まだあまりスタージョンが広まっていない頃、スタージョンとブラッドベリは同列に語られることが非常に多かった。
ブラッドベリ自身もスタージョンに対して嫉妬した、というようなことをいっていますので、確かに共通する所も多いのかもしれません。
なんで例えられるのかというと、二人ともやっぱり孤独を扱うのが非常にうまい、というか孤独に対して非常に真摯な目を向けている作家だからだと思います。ただ、スタージョンはその根底に奇想があって、ユーモラスな設定と世界観の中の孤独な人々、という書き方ですが、ブラッドベリはその背後の世界も何か、切ないノスタルジーを呼び起こすものであることが多いのではないでしょうか。私はブラッドベリに関してはそんなによんでいないので判らないのですが。

で、これはSFではないです。ハードボイルドというジャンルになっています。なってはいますが、質感は全くの別物という感じがしました。
そもそも主人公からしてイメージと違います。彼の顔の形容詞としてでてくるのが「アップルパイ」。ふとっちょです。おそらく童顔。そしてお菓子が大好き。小説家で怪奇小説を書いてますが全然売れてません。「トスカ」を聞きながら涙をこぼしてしまうような男です。

彼が探偵役となるわけですが、彼は決して証拠を組み立てて事件を推理したりはしません。直感だけ。彼の身の回りの人々が皆、事故で次々と死んでいくのですが、彼はそれが事故だとはとても信じられない。
彼の知り合う人々は皆、孤独で『変わった』人たちです。死んでいったり消えていったりしても疑問にも思われない人たち。
「カナリア売ります」の貼り紙をドアにはり、その鉛筆の線が消えるまで孤独に待ち続けた老婆、音楽が大好きで、過食症の優しい大女、老人になっても身体だけは彫刻のように美しくあることを願う男。
こうした人々の間に、死の影がおちはじめ、何かが少しずつ変わっていきます。

推理する部分があるわけではないので事件物としては全然読めません。ただとにかくノスタルジックな、ヴェニスという町(イタリアじゃなくてメキシコ)、この霧のかかった憂鬱な町にすむ、個性的な人々がとにかく面白いです。
主人公が事件が起こっていると確信し、頼りに行く刑事がいるんですが、この人がまたいいんですよ、ハードボイルドものならこの人が主人公だろっていうぐらい渋い。最初は主人公のことをうっとおしがるんですが、そのうち打ち解けて彼の話を真面目に聞くように
なっていきます。彼も実はこっそり小説を書いているんですよね。
とにかく登場人物が多くて、彼らの住んでいる環境がとてもノスタルジック。遊園地や古い映画館、張り紙が沢山貼られた寂れた昔の通りなど、なんだか古本屋に入ったときに感じるあの匂いのようなものが、行間から漂ってきます。

そして孤独。この素晴らしいタイトルが、この町に住む人々そのものを如実にあらわしています。死ぬときはひとりぼっち。そして彼らは本当にひとりぼっちで死んでいく。登場人物が魅力的なので、死んでいくたびにつらくてつらくてたまらなくなります。
そしてそれだからこそオチには正直ちょっとがっかりしました。こんな酷いことやるにしてはあんまり殺人鬼が普通すぎるんですよね。これだけはどうしても読んだ後に許せなかった。

しかし兎に角偏執的なまでに細かい繊細な描写と、登場人物の魅力、そして死ぬときはひとりぼっちというテーマそのものが、非常に素晴らしい小説でした。
ブラッドベリもいいなあ。今度は「火星年代記」を読んでみよう。