「神州纐纈城」国枝史郎


今回は「信州纐纈城」。纐纈はこうけつ、と読みます。纐纈城というのは宇治拾遺物語にでてくる話で、中国の故事であり、城の中で人に口の利けなくなる薬を飲ませて生き血を搾り取り、それで布を染めるという恐ろしい物語。

物語は中心人物と思われる庄三郎という武田の家臣が、あやしげな人物から赤い布を買うところから話が始まります。それは人血でそめられた布としり、庄三郎はそれを手がかりに失踪した伯父と父を探しに富士山麓へ向かう。


中心人物と思われる、とかきましたがこの男、後半になるとさっぱり出てこなくなる上、出てきたと思うと富士にある教団にまぎれこんで割と平和そうにゴロゴロしてるので結構ズゴーって感じなのですが…まあとにかく、この話スタイルがちょっと変わってまして、主人公と思われる人がいない。
沢山の登場人物が出てきて、それが場面場面かわるごとにきりかわっていく。この人物が魅力的なんだなあコレが。
顔を作る造形師月子や、教団の創設者である光明優婆塞、武田家を抜け出した庄三郎を追う鳥刺しの少年甚太郎。でもなんといってもやっぱ一番魅力的なのは陶器師じゃないでしょうか。

陶器師といっても焼き物をつくるわけでなく、旅人を竈にいれて蒸す野郎なのですが、こいつが鬼畜も鬼畜。なんでもかんでも『姦夫!』といっては切り捨て、人を殺すのになんの罪悪感も抱かない男なのです。
人形のように無表情な恐ろしいほどの美男子で、剣の腕も立つ。血を求め、人を殺さずにいられないのですが、その狂気の間にはむなしさが見え隠れします。実は彼には過去もあるのですがそれは読んでもらうとして。
でも、とにかく魅力的なキャラだよなあ。けだるそうに剣を佩いて現れ、真っ白な顔をして月夜のなかにゆらりたちながら、斬るかな、それとも突くとしようか、と呟くなんて、たまりませんよ。他にも美人&美男子率がかなり高く、個人的には所謂萌えを感じました。

冗談は兎も角。この話、人類に大きな恨みを抱く纐纈城の城主(瀬病を病んだ、能面の仮面をつけた男)対富士の宗教団体(光明優婆塞という、まるで乞食のような、懺悔と己への罰を精神とする男)という図式になっております。

富士教団はまるでユートピアのようなところ。しかし時折人狩りと称して纐纈城の人達が人狩りと称して人を攫っていきます。でその纐纈がどんなところかというと、これもまた一種のユートピアなんですよね。彼らは確かに囚われているけれども、いい服もきれるしいい飯も食える。ただ時折くじで誰の血が絞られるか決められてしまうのだけれども、多くの人はそれをよしとして動かずにいます。

富士教団も少し似ていて、庄三郎は当初の目的を忘れてついだらだらとその楽園で過ごしてしまう。何か人をひきつける魔力みたいなものがあるんですね、その教団には。

個人的には富士も纐纈もどちらが善でどちらが悪といいきれない部分があるように思えてなりません。私自身がユートピアというものに一種の胡散臭さを感じるせいか、あの富士教団には善人の集まりというより不気味さを感じますし、陶器師が光明優婆塞が、人が救われるのは懺悔しかない、とといたときにあざ笑うのにも納得できました。実際、本編で甚太郎の言葉から月子が、善と悪とははっきりわけられないものなんじゃないのか、と自問自答するシーンがあるとおり、全編に渡って、残酷だけれど悲しい部分を持った人々が沢山出てきます。

富士の描写も素晴らしい。まだ未開で、危険な場所だった富士。そこに広がる発光虫の群がる洞窟、仏の掘られた岩壁。 グロテスクな描写も多く、あまり意味のない解剖シーンもあったり、終盤で瀬病患者が続々と集まってくる部分や、月子の造顔の様子までが非常な密度で描かれていて、なんとも血の匂いが濃い作品だと思います。てか読みながら最近読んだ奴で一番グロいと思いました。

ただ、これ、未完なんですよね、しかも凄いいいところで終わる。これが未完であるという理由もわかる気がします。キャラクターがどんどんでてきて、話が色んな方向から進んでいくのは面白いんですが、逆にいうと話が凄くとっ散らかってるんですよね。キャラクターの性格もしょっちゅう変わっちゃってる印象も受けるし。(甚太郎とか、あいつはもっと残酷なヤツと思ってたからガッカリしたよ全く)

『こういうストーリーをかきたいからこういう場面を書く』というより、『こういう場面をかきたいからストーリーをこういうふうにする』という練り方をしているように思います。だから風呂敷広げすぎてたためなくなったのかなあ。でも確かに風呂敷広げすぎたよさってものもあって、そのとっちらかった印象すらも混沌とした雰囲気を与えていて、味わいはあるんだけど。
でもこういう話の途切れ方なら、本当に完成させて欲しかったなあ。伏線張りすぎて、ごちゃごちゃしててちょっとよみにくい。あんなにいいキャラクター描写や、風景描写があるのに本当におしいと思って歯噛みしてしまいますよ。


でも、ほんと、なんとも幻想的かつ血なまぐさい描写が素晴らしく、くるくる変わる展開に目がはなせなくなってしまいます。陶器師みたいな男何処かにいませんかね。斬り殺されたい。
闇がある、狂気とか血とか瀬病とか宗教団体とか、このへんのキーワードにびっとひらめくものがあったら、是非開いて欲しいです。いや、ゴスを気取る人も絶対読むべきですってこれ。


かきながら思ったんだけど、この大風呂敷広げたってデビルマンだよな。あれはオチのつけかたが凄かったせいで返って評価が上がったけど。
恐山にいったら国枝史郎に続きかいてもらいますよ、ほんと・・・

夢野久作についてちょっと

今回は久々に作家について話してみようと思います。てかカテゴリ作ったのにスタさんしかないじゃないかこのカテゴリ。

夢野久作といえば、何となく最近が旬の人、という気がします。というのは何故だかわかりませんが数年前から彼の名前が一般にも知られるようになってきて、今まで怪奇文学といえば江戸川乱歩か横溝正史かって感じだったのがこの人の名前も付け加えられるようになったような気がするからです。なんでだろ?なにかあったのかな?

彼といえばドグラ・マグラですが、私としては短編を読むことを切に勧めます。『斜坑』や『卵』なんかがお勧めです。何故ドグラマグラを勧めないかというと長いんですよ、これ。兎に角長い。通しで読めばそのよさもわかるのですが、最初に読むにしては長すぎるし、その大半が小説の中に出てくる文書、というわけであまり勧められません。面白いんですけどね。チャカポコチャカポコ。
個人的に長編はどうもぐだぐだになりやすい人の印象があり(多分独特のアクの強い文体に途中で飽きがきちゃうんだと思う)短編が好きです。

彼を一言で言えば狂気の作家、だと思います。ものすごく私見だし、御子孫もお怒りになられるのかもしれませんが、彼は小説を書かなかったら殺人鬼になっていたんじゃないのか、とも思うのです。
何故そう思うのかというと、彼の書く文章そのものがかなり『病んだ』印象を与えるからです。
所謂『病んだ』小説を書く人は沢山います。さっきあげた乱歩もそれだと思います(正史はよんだことないの)。でもちがうんだよなあ。乱歩の病んでる加減は狙って描いてるって感じがするんですよ、その奇抜さや、グロテスクさで人を驚かせてやろうというような。久作は何か違う。乱歩が剃刀でしゅっと切った傷口ならば、久作の文章は何かで潰して膿んじゃったというような、何かぐちゃぐちゃした暗さ、みたいなものが確かに漂っている。

まずはその独特の文体。カタカナを多用した文体はなにかしら人をぞっとさせるようなところがあり、また笑い声(アハアハアハ)や擬音(ダルダルと飲み込んでしまった)の表現がもうほんと独特で、もうこれはQさんじゃなきゃかけないです。
これって笑えるんですよね。笑えるんだけど、薄くあげた唇のはじで笑いがこびりついてしまう。何だかぞっとするんですよ。おかしいのに。

そしてこれは本当に色んな小説を読むたびに感じることなのですが、久作の場合特に顕著に、この人にしかかけない雰囲気、言葉で言い表すことの出来ない何かが作品に漂っています。
例えば私が大好きな彼の作品、『斜坑』は炭鉱が舞台なのですが、オープニングから「ホォーーー…トケェ―――…サマァァ―ー」と始まります。コレは坑内で死んだ人が魂を残さないように、死人に場所をいいきかせながら死体を運んでいく、という場面です。
これに代表されるように、全編不吉な匂い、またなんといいますか、田舎らしい野蛮な人の性質(これは差別的かもしれませんが、実際田舎を舞台にしたホラーとかって多いよね…)がまさしく行間の間に読み取れるんですよ。この雰囲気作りが本当に凄くて、彼の作品を2,3篇も読むと、もう暫くあの空気から逃れられないほどです。なんだろう、この才能というか、この自身が持っている病んだものに嫉妬さえしてしまうのですが、どうしたら本当にこういう空気まで書けるんだろうなあ。兎に角素晴らしい。

あと後味の悪さも特徴の一つで、毎回毎回救われなかったりぼやぼやして終わってしまい、頭の中にいつまでもその場面だけが煙のように渦巻いていたりする。
少し調べてみたら実際少し複雑な環境の人だったようで、やっぱり少し変わった感性の人だったんだろうな。まあこれは控えめな言い方だけど要するにキ印なんですよ彼の小説(ああいっちゃった)。
もし読んだことないって人がいたら是非お勧めしたいです。軽くショックぐらいはうけると思います。ただこれを受け入れるかどうかは別問題ですが(笑)。

お勧めは『斜坑』『いなか、の、じけん』『空を飛ぶパラソル』あたり。とくにいなかの~はまさしくQさんの代表作。私はハードカバーでもってますが文庫でも全集でてるみたいです。
あ、あとこの人とか他の日本怪奇小説に代表されることですが、今から見ると差別とも受け取れる言葉は多いです。キチガイとかシナですね。まあそれがまた雰囲気あっていいんだけど、その辺駄目な人もいるかもしれないんで一応。

どうでもいいのですがこの人とラブクラフトだけは写真見たときショックを受けました。夢野アゴ作…アゴクラフト…とか呟いてませんよ!断じて!
そういや2ちゃんのアゴ…ラブクラフトスレは大好きなんですが、あんな感じでQちゃんスレもできないでしょうか。Q語で語りたいです。

スティーヴン・J・グールド『ワンダフル・ライフ』

さて、今回は私には珍しく科学書でございます。今更コレかよ、ってぐらい、一般人によく知られてる科学書だとも思うんですが。すいません。

グールドという人は、一般向けの科学書やエッセイを沢山書いていて、それが読みやすく理解しやすいだけではなく、人文と重ねあわせ、人間の歴史まで述べてしまうところが非常に面白い人だと思います。エッセイを読んでいると、間から知的さがじんわりにじみ出てきていて、いやあもう、私大好きでございます。

アメリカでベストセラーになった本です。アメリカ人のいいところって、ちょっと一般向けに向けられたりした本とかだと古生物学だろうが物理だろうが、なんでも「読んでみよう」て思う、あのパイオニアスピリットですよね。日本人だとどんなに読みやすくても敷居が高いと思う人が多そう。面白いのになあ、この手の。

この本の主題は『バージェス頁岩』。バージェスからみつかったカンブリア紀の化石郡です。ナラオイア、オパビニア、アノマロカリス、ハルキゲニア。とりあえず知らない人はこの当たり、検索掛けてみてください。こんな生き物が存在したのか、と驚きと共に好奇心を刺激されるはず。

まずバージェス頁岩とはなにか、ということから始まり、ウォルコットという人が適当に分けた分類を見直す計画にのりだしたハリー・ウィッテントンらの発見がメインにすえられています。
この発見から、カンブリアというのは特殊な時代であること、またそれだけではなく、人の(少なくとも一般人の)進化に関する偏見も打ち壊すものであることが明らかになります。

何故カンブリアが特殊な時代なのか。
大体の人は進化の樹を思い浮かべるときに、ある偏見に基づいて思い出すはずです。つまり、下が狭くて上が広くなっている、あの形。少ない数から始まり、その『原始的な』生物から、『多彩な』今の生物が生まれてきた、という考え方です。

カンブリア紀はこれに疑問を投げかけます。何故ならバージェス頁岩から見つかった化石の種類は現代の生き物より多彩であるからです。

何が多彩かって、驚いたことに今までわけられたどんな門にも入らない生き物が存在するのです。これは大変なことです。だってカンブリア紀の生き物が出てくるまでは、新しい門を作る必要がないくらい、生き物は理路整然とわけることができたんですから。

またこの偏見から、グールドはさらに面白い見地でものを見ています。それは『原始的』という考え方、それに伴った『弱いもの』という考え方です。
カンブリア紀の特殊である原因の一つは、それがばっと爆発したように多彩な生き物を生んだあと、滅びるときもあっというまに滅びてしまい、繁栄する期間が明らかに少なかったことです。
この説明としていわれているのが、『自然淘汰』、ダーウィンのアレです。自然淘汰というのは自然が生き物を操作する、というものです。つまり、キリンの首が長くなったのはたまたま首が長くなる遺伝子を持ったキリンがその有利さ(遠くの敵を見れるとか、葉を多く食べれるとか)によって生き残り、種として確定した。
(ちなみに、じゃあ何故進化がどんどん進んでチーターがマッハ3で走らないのかというと、チーターにはほかにも進化させるべきところがあって、例えば子供に与える乳の栄養価だとか、牙のサイズや鋭利さだとか、そういった面も共に進化させているので、そうした極端な進化ばかりが起こらないんだそうです。この極端な進化が起こった例が、クジャクなのではないかと聞いた事があるような無い様な・・・)

これが自然淘汰の考え方なのですが、これでバージェス頁岩を考えると、つまりなんらかの原因によって大量発生した生き物達は、『原始的』かつ『適応力が無かったため』後世まで殆ど生き残れなかったのだ、ということになります。しかしグールドによると、この極端な自然淘汰には人間中心的な考え方があるのではないか。つまり、人間はそうした自然淘汰の結果生き残り、進化の先端にいることができる『特別な』生き物である、という考え方ですね。

グールドのエッセイを読んでいるとしばしば一見冷静である科学者が、人間を『動物』として正当に見ることが出来ず過ちを(少なくとも今から見れば)犯している、という話が出てきます。そのたびにグールドはそれは正しくないと解き、謙虚かつ科学的なものの見方をすることを勧めているように思えます。

バージェス頁岩でも同じで、実際観察してみると、彼らが滅びた必然なんて何一つない。例えばカンブリア紀から残った数少ない種類であるアユシェアイア(現在のカギムシ類)は、当時は決して優れたところが特別にあったわけではない。
この極端な自然淘汰の考え方の欠点は、どうしてもあと出しになるからだというんですね。例えばサーベルタイガーは牙が長すぎて滅びた、といわれていますけど、もしヤツらが長く生き残っていたとすれば、私達は「あああの立派な牙のおかげでここまで繁栄したんだ」と判断するでしょう。
ダーウィン本人もいっているらしいのですが、自然淘汰はあくまで考え方であって、確固たる確信しとして使うものじゃないようなのです。グールドはこれを踏まえ、2,3の仮説を組み合わせた、バージェス頁岩の絶滅について説明しています。

考えてみればダーウィンの進化論が受け入れられるまで、神様が世界を作ったのだと思ってる人が一杯いたわけですよね。今になってみれば笑えてしまいもしますが、でも今でさえ私達は自分が特別でありたい、『少し違う生き物』でありたいと常に思ってるんじゃないでしょうか?

グールドのエッセイにのっていた話だと思いますが、ダーウィンがで、『色んな人々が世界はこんなに秩序だっていて美しいのだから、誰かによって想像されたにちがいないと思っていますが、私は全くそうは思いません。神様が寄生バチのような残酷な生き物を作るとは思えないからです』と、いかにもダーウィンらしい率直さでいっていたのを読みました。
確かに世界は秩序だっているように見えるかもしれないけど、それは結果としてそうなっただけで、実際細かいところに目を向けると混沌としてるものなんだよなあ。

長々かきましたが、一般の人でも読みやすいように細かい用語解説がつき、なんといっても豊かな図版で示されているのでパラパラめくってるだけでも結構楽しいです。
グールドの代表作。これに嵌ったらドーキンスの『盲目の時計職人』もお勧めです。

あ、ちなみにちょっと前の本なので、少し発見が進んだ部分もあります。ハルキゲニアがそれで、実際は上下逆であったことがあきらかになりました。どっちにしても奇妙キテレツにはちがいないですけど…